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月と六文銭・第八章(1)

~それぞれの日曜日~(1)


 武田たけだ哲也てつやは現在、アジアに強みを持つ日系投資会社AGI(Asia General Investments)投信投資顧問の投資部門長兼債券投資部長をしていた。漢字は違うものの、とても有名な歌手・俳優と同姓同名のため、初めて会う日本人からは漏れなくクスッと笑われるという人生を送ってきた。

 全く偶然だが、好きな歌の一つが『贈る言葉』だったものの、カラオケに行くと勝手に『あんたが大将』を入れてくれる人が絶えず、その度に前奏で早々と演奏を中止して、『Get Wild』を代わりに入力し、歌い終わったらサッとカラオケを出るようにしていた。

 大学2年の米国海外留学中に米海兵隊にスカウトされ、そのまま米中央情報局(CIA)の契約社員となり、大学卒業後、同局の要請を受け、難易度の高い狙撃などを実行してきた。

 もちろん、日本の普通の大学生らしく就職をしていたが、在学中にいわゆる「バブル景気」がはじけ、一般企業が就職を絞っていく中、国家公務員試験Ⅰ種に合格して、国税庁の職員になった。周囲からは「え、お前、外資じゃないのか?なんで公務員なの?英語、使わねぇぞ」と散々言われたが、国のお金の流れを勉強するにはとても良い職場だった。

 武田は炭酸水の入っているコップを宙に持ち上げた。カランカランと氷が心地よい音をさせながら、初めてのアサインメントのことを思い出していた。


 日本を震撼させ、世界で初めて化学兵器テロが成功した例として不名誉な「地下鉄サリン事件」が起こったのは1995年3月。再三の捜索にも関わらず、逮捕を免れていた教団教祖を、武田は教祖が隠れていた施設の弱点を利用して、白日の下に引き出した。

 その際、初めて六文銭のコーリングサインを残した。今にして思えば軽率だったが、その後狙撃の度に6枚の一文銭を並べて置いていくか、六文銭をデザインしたカードを置いていくようになった。

 あの世へと行く時、三途の川の渡し守へ払う渡し賃(運賃)が6文だったことが六文銭の由来と言われている。納棺の際に亡くなった人がきちんとあの世に行けるように、或いはあの世でお金に困らないように、という意味で残された人達が6文入れる地方が今でもある。

 また、六文銭は六道銭とも呼ばれ、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)にそれぞれいる6体の地蔵菩薩に1文ずつ渡すためとも言われている。

 もちろん、歴史好きに限らず、デザイン的にも分かりやすいことから、戦国末期の真田氏の家紋「六文銭」が有名だ。実際には、家紋ではなく戦の時に旗に入れる旗紋だと言われているし、戦国期よりも江戸時代に入ってから講談などで「真田氏は六文銭」が定着したと言われているものだが。


 武田は狙撃銃のスタンドの位置を決めるのに、穴の開いた硬貨を使用していた。スタンドの先はゴムか樹脂で、下向きの円錐かピラミッドのようになっていたことから、ちょうど硬貨の穴に合わせて、場所を決めることができた。位置が決まったら、銃を持ち上げ、硬貨の穴の位置にペンなどで印を付けたら、硬貨をどかした後のペンで付けた印にスタンドの脚を合わせたら良くなる。

 あのアサインメントの時は、夜ということもあり、五十円硬貨ではなく、少し穴の大きい一文銭を使ったのだが、狙撃の後に持っていた一文銭を3文ずつ2列に並べて置いて行ったのだ。

 この仕事を始めた時、初めから六文銭にこだわろうとか、自分の技術を誇示しようとは思ってはいなかった。知られないことの方が大事だったのだから、自分につながるようなものを残すなど、危険極まりないはずなのに、ついやってしまったのだ。

 そして、やがて習慣となっていったのは、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つを唱えながら、狙撃銃の各部のセッティングを確定して行って、最後にトリガーを引く行為。外国の狙撃手が呪文を唱えるように『スナイパーの誓い』を復唱するのと違い、自分の中のチェックリストを順番に確認していくようなプロセスと言えた。


 武田がかかわった狙撃で真の目的は明かされていないものの、港区地下ケーブル火災や大阪大規模交通マヒなど、新聞に載った事件も幾つかあったが、実在しない「ゴースト」として絶妙な狙撃を発揮したケースの方が多かった。

 日米両政府の依頼で行っていた狙撃と思われたものもあれば、結果的に日本の国益を損ねると思われるケースもあった。シンガポールの半導体製造設備への狙撃は、米国の対日優位を確保するためと思われた。

 暗殺やテロなど政治的に直接影響のある依頼には消極的だった武田だったが、忍耐と技術の限界を試された国会議事堂地下補線での狙撃は、表の歴史に、いや裏の歴史にすら記載されないものだった。

 その狙撃により、時の民自党政権は選挙での大敗を逃れ、非核三原則に反する日本への核兵器持ち込みを米国が続けられるようになった。

 このアサインメントで武田は国内で初めて人を殺した。しかも、3人も。氏素性は知らされず、国益を脅かす存在として日米両政府公認の下、これらのテロリストを射殺したのだ。

 武田は今でもあの時の地下鉄の線路の奥にあるトンネルの、流れる水の音と、腐敗と死が発生させた、吐きたくなるような臭いを思い出すことができた。


 当日、武田は地下鉄永田町駅のコインロッカーから狙撃銃と警視庁狙撃班のユニフォームがそれぞれ入ったバッグを取り出し、永田町1丁目にある憲政記念館の資材搬入口で公安部の係官と合流した。マスクを着け、野球帽を被り、サングラスを掛けて行ったため、公安職員に顔を見られていないつもりだった。

 トイレで装備を身に付け、銃を組み立て、階段を4階分くらい降りて、ややカビ臭い通路を通り抜け、表記上は地下2階にあるという第3文書庫の奥の扉から、今まで知らなかった国会議事堂や霞が関の下に張り巡らされた迷路のような地下道へと入って行ったのだ。

 武田は国会議事堂と議員会館を結ぶ地下道の存在を知っていたが、それはほんの一部で、使用されていない線路やトンネル、廃棄された地下駅舎や避難通路があることをこの時初めて知った。

 真っ暗な地下で、体の半分を覆う地下水で体がどんどん冷えていく中、テロリストを確実に仕留められるタイミングまで集中力を保ち、ここぞといった瞬間に3発だけで3人を仕留めた。この射撃は自分にしかできなかっただろうと今でも自負している。警察の狙撃手でも可能な狙撃と思われるが、3人で1人ずつを仕留めるのがせいぜいで、1人で挑戦したら1人は撃ち損ねただろうと思った。 


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