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月と六文銭・第二十一章(14)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 出張を聞きつけた若手の渡辺を連れていくことになりそうだったが、武田が密かに設けた「採用基準」を満たすことができず、同行は認められなかった。
 若手が積極的に提案し、動くのは良いことだと思う武田ではあったが、渡辺の場合、考えが浅く、自分の昇進に繋がるところ、アピールできるところばかりを狙っているのが問題だった。運用戦略会議のメンバーとなった今も武田の真意を理解していないようで、年次が下の土屋良子、そのもう一年下の三枝のぞみに追いつかれそうになっていたし、同期の瀬能は海外勤務が内定していた。

14
 金曜日の出張は波乱で始まった。地下鉄は人身事故でダイヤが乱れ、一度オフィスに出てから出張に行く予定だったが、武田は乗換駅で混雑に巻き込まれていた。コンコースからホームにも改札にも動けず、乗り換えもできなければ、駅を出ることもできない状況だった。

<仕方がない、混雑が解消するまで動かずにいるか>

 朝のラッシュを直撃した人身事故は普段からある通勤の混雑を大幅に悪化させ、駅の外まで人が並んでいる状態だった。これは武田が後でニュースで知ったことだが、地上でに出てもタクシーは掴まらなかっただろう。

<もちろん、携帯電話だって繋がらないよね>

 こういう場合、誰もがオフィスに連絡を入れようとするだろう。どうしてもっとのんびり構えて、「混雑が解消したら移動を再開する」と言えないのか?

<ニューヨークみたいに誰もが勝手に混雑回避で9:30分に出勤するのも問題だが>

 ニューヨーク勤務になって武田が驚いたのが駐在員までが始業時間を守らず、9時過ぎ遅い時は10時近くに出勤していることだった。

<弛んでいるにもほどがある!>

 前任の社長が鷹揚な人だったため、いちいち注意はしなかったが、記録は取っていた。

「武田さん、大野さんは米国生活が長いので、こちらの生活に合わせています。中田さんは割ときっちりしています。二人とも米国の大学院を出ています。小川さんはこちらの大学卒でここが初めての日系の会社なので、取敢えずは指導通りに仕事をするよう心がけています。SVP(シニア・バイス・プレジデント)のポール・チェンは中華系でアービング出身。組合代表的な存在で従業員は彼の意見に耳を傾けます」

 引継ぎ内容は各人物、特に現地採用の日系人と現地幹部として長年勤めてくれていた人を中心に行われた。
 毎年就業規則を厳しくしていかないといけなかったのは日系の大野がそれを守らないためだった。それも直接対決を避けてきた前任社長にかなりの責任があるが、空出張などの回数と時期を知らべるとかなり前の社長の代から繰り返されているらしく、訴訟事に発展するのを避けるため、解雇していない(できない?しない?)ということだった。
 会社に対して大きな損害を与えていないなら、そういう社員もいるよねと会社全体で吸収することも可能だろうが、製造計ではない現地法人は人件費がコストの大部分を占めため、許されない。
 前任社長からの引継書には「大野問題の処理」という項目があり、別途保管されている不正請求のデータや偽造された領収書、問題点を含んでいる提案書・稟議書や請求書がファイルされていた。

<これだけ揃っているのに、以前の社長たちはどうして処理しなかったのだろう?米国の訴訟社会が怖いのか?>

 米国の訴訟社会を舐めてかかると痛い目を見る。それは日本人が思っている以上に理不尽で納得のいかない世界だった。自分たちが正しくても裁判では負けてしまう。それが米国訴訟社会の怖さだった。

<ならば負けない裁判をやればいいじゃないか?>

 言うは易し、成すは難し。愛知自動車が先日米国幹部のハラスメント裁判で負けたばかりだった。そうなると人権派弁護士が小さくてもいいから日本企業と対立している元従業員を見つけ、賠償金を吊り上げ、ふんだくろうと躍起になるのだ。武田のところも例外なく、日本の大企業(おいおい)対小さく無力な従業員という構図は描きやすく、陪審員も味方しやすい。

 武田は目を閉じて、当時の苦労を思い出さないよう、初めてニューヨークでデートしたモデルを思い浮かべた。

<セァラ・イー(Sarah Lee)、きれいな胸だったな>

 武田が初めて交際したプロのモデルはセァラ・イーといった。日本では「サラ・イー」と名乗っていた。英語読みをすると「サラ・リー」となり、日本で「サラリー=給与・給料」と聞こえて、あまり心証が良くないことから、セァラ・イーという名でモデルショーなどに出ていた。
 セァラは韓国系、LA出身のモデルで、当時は510、33、24、35、9だった。胸が33インチ、約85センチになっていたが、とても日本でいう85センチというイメージではなくて、質量的には「90!」という感じだった。
 ミス大会はたいてい18歳以上だから、大会に応募できるようになる前からプロのモデルをしていた子だ。早い子は14歳でスカウトされ、大事に育てられる。セァラもそうだった。だから今は数少ないアジア系スーパーモデルとして、活躍している。あっちこっちを飛び歩くようになるまでの短い付き合いだった。
 初めて会った時は「日本人の男如きがぁ」という態度だった。2、3度SOHOズッドで食事したが、その後音沙汰がなかった。有名な歌手・マライア・ファリーのパーティーで再会してから急に盛り上がり、彼女はその夜、初めて、自分より背の低い男を受け入れていた。
 結局、日本人が嫌いな韓国人だったのか、背が低い男を相手にしたくない背が高い女子だったのか、ファッション業界に強力なツテがない、つまりスポンサーにもコネクションにもならない業界外の男だったのか、理由は分からないが、その後の彼女は情熱の塊のように武田と接した。アジアとNYを往復している間は良かったが、欧州にも行くようになったら一緒にいる時間がなくなったと交際を終了した。
 武田は大柄の女性との迫力ある行為にすっかり魅了されたが、大柄だから印象に残ったという訳ではなく、とにかく胸の形がきれいで、乳房のカーブも乳輪の大きさ、色、そして乳首の形が絵画のように整っていて、何時間でも眺められると思ったものだ。いや、何時間も舐められると思ったが、そんなことをしたら痛くなるからしなかったが。

<サァラの胸…。しまった、こんな時に>

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