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月と六文銭・第二十一章(11)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 サポートをしてくれている秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこはほとんどの社員が知らない裏の顔を持っていて、武田はそのことを偶然知ってしまったが、その部分を除けば非常に高い事務能力を持っているいるだけに少し警戒しながらも彼女の事務能力の高さには感心していた。

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 取引先に伺うのに、いまだに手土産が必要と主張する大阪支店長の田畑たばたは証券会社から移ってきた旧人類に属するタイプの社員だった。根性論以外は認めないし、目立ってナンボと主張するので、気に入らないことがあるとすぐに電話をかけてきて怒鳴る。そんなこともあって、東京の総務では最小限しか対応しない人がほとんどだった。
 武田は個人的に「交代が必要」だと思っていたが、メイン株主の一つ、大阪に本拠地を置く住之江すみのえ銀行出身の平泉ひらいずみ社長が交代を許可しないため、田畑は十年も大阪に駐在し、関西の取引先と太いパイプを作っていて、何かと東京本社に圧力をかける暴挙を繰り返していた。前のいぬい社長だったら、交代させたかもしれないが、営業出身の平泉にとって、田畑は強力なサポート役だったのだ。

「田畑さんは時代遅れだが、大阪のビジネスに精通しているから、仕方がないんですね」
「それはおかしいと思います。
 それにあの人は毎期経費がオーバーしても改善しようとしていないですし、自分用にかなり流用していると思われますから」
「あの飲み食いの派手さは問題だけど、自分一人じゃなくて一応取引先を接待しているからセーフなんでしょ?」
「そこがあの人のズルイところで、名古屋支店長の今井さんはそんなことは一切やっていないですし、必ず接待については社長に許可を取っています」
「今井さんは大正生命出身で、AGI投資投信顧問が尾張自動車の金融子会社・愛知金融の資産運用子会社『愛知アセットマネジメント(AAM)』を吸収合併した時に陣頭指揮を執った敏腕マネージャーだ。
 名古屋支店長の前は経営企画部企画担当執行役員だったからね、実直で真面目で、会社第一を考える優秀な人だ。
 次の株総かぶそうで取締役になるんじゃないかな」
「公明正大で公平な評価を実施する点も部下一同とても良かったと思っています」
「ああいう人を会社はもっと大事にして、どんどん上に引き上げていかないと、よくなるとは思えないね」
「武田さんのような人は?」
「いや、私は稼ぐだけ稼いだらドロンします」

 松沼は声をあげて笑ってしまった。

<今時『ドロンします』なんて昭和過ぎ…>

「いいでしょ、ドロン?」
「うちの父も使うので私は分かりますが、果たして他の社員が分かりますかね?」
「別に分からなくてもいいんだけどね」
「しかし、ロンドンに行って欧州統括となると聞いて、少しずつ準備をしているのですが、それはどうなるのですか?」
「ユーロとポンドで荒稼ぎしたら早期リタイアするかな。
 最近ではFIRE(ファイヤー)というらしいね」
「経済的自由、早期退職の英語の略語と聞いたことがあります」
「そう、financial independence, retire earlyの頭文字を取ったものです。
 ミレニアム世代の共通した目標のようなものになっていますね。
 ま、経済的自立と早期退職を目標とするライフスタイルまたはそれを啓蒙するムーブメントを指す造語だけど、米国、欧州を経て、日本にも広がっていますね。
 本業以外の副業、ネットビジネス、ユーチューバーの台頭など稼ぎ方が変わったことも広がった一因だろう。
 FIREを達成するためには、貯蓄率を高め、生活費を25年分貯蓄することと、投資のインフレ調整後の利回りを4%以上にすることが必要といろいろな書籍に載っている。
 しかし、日本の場合、高齢化や介護問題、仕事を完全にやめると社会的圧力がかかってくるなどの課題がある。
 また、生活費25年分なんて人生百年時代では足りないというのが私の意見だ。
 人生百年時代なら生活費は40年分くらい溜めないといけないだろうし、仕事をやめると社会から離れすぎて浦島太郎になってしまうから、FIREを実現しても、静かに働き続ける生活スタイルが現実的だと思っています」
「なんか、初めて具体的な数字を聞いた気がします」
「渡辺さんあたりは『目指せ、FIRE!』なんてやっているんじゃないの?」
「やってます!」

 厳しい表情をしていた松沼がやや表情を緩めて武田を見つめた。

「瀬能さんもか?」
「はい!」
「君たちの世代は働き始めたばかりなのに、もう働き終わろうと思っている点がすごいよね。
 私の若い頃の上司が聞いたら机を叩いて怒りそうだよ」
「時代ですかね」
「まぁ、時代と言えば時代だし、そろそろ日本も働き方を変えないといけないのは事実だが、若い世代ほどいいとこどりばかり考えるのはどうかと思います」

 また、松沼は複雑な表情をした。今現在はどうか分からないが、武田が知っている範囲で松沼は少し前までパパ活をして性欲を満たすのと収入を増やす両方を目指していた。
 そのことを知っているのは武田と恋人ののぞみだけだった。表向きは「経理の上司との不倫に対する処分」で決着していた。
 松沼は会社内にパパ活がバレていないと思っている。武田には善後策を相談しており、会社内では唯一彼女のパパ活のことを知っている人物だと思っている。
 今でもパパ活を続けているのかを確認するわけにはいかないから、武田は知らんふりをして話を続けた。

「渡辺も瀬能ももっと本業で稼いだらいいと思うんだが」
「お言葉ですが、部長くらい稼げるなら、こんなことを考えずに」
「だから、ここで頑張れと言っているんですよ。
 ここというのは我が社の投資運用部門のことです。
 きっちり仕事をすれば稼げるはずで、アーリーリタイアも夢じゃないと思いますよ」

<部長ほどの才能をみんなが持っているわけじゃないんです。私たちのほとんどは凡人で、いかに稼ぐか藻掻いているのです>

 再び松沼が複雑な表情をしたので、武田はそこで矛を収めた。

「ごめんなさい、昔ほど債券も株も稼げなくなっているから、FXとか先物に個人が手を出しているんだよね」
「そうだと思います」

 目の前の電話が鳴った。渡辺の内線からだった。

「一旦戻ります。
 資料ができたら一度電話します」
「ありがとう。
 お願いします」

 松沼は立ち上がり、軽くお辞儀をして、扉を閉めながら部屋を出ていった。さすが気遣いの松沼。

「はい、どうしました?」
「青森出張についてご相談したいことが」
「どうぞ。
 あ、いや、部屋に来てください」
「はい」

 渡辺は電話を切り、スッと立って武田の部屋に向かい、松沼とすれ違った。何か一言、二言、言葉を交わしたが、武田には聞こえなかった。

「部長、私も青森出張に同行させてほしいのです」
「ほぉ、急にどうしたのですか?」
「やっとCFAの登録が終わりまして、社内的にも、一応、有資格者になりましたので、部長のミーティングに同行し、勉強させていただきたいと思いまして」
「ちょっと聞いてもいいですか?」

 渡辺はテストされると思ったのか、ちょっと構えた。

「渡辺さんは有資格者になったから、より大きなファンドを担当できると考えているのですか?
 津軽銀行は中々大きなポート(*)ですよ」

*ポート…ポートフォリオ、またはファンドのこと。投資家の投資内容をまとめて言う。或いは株、債券、不動産ごとにまとめた物を言う場合もある。

「はい、知っています。
 部長のポートを勉強させてもらっています」
「で、君は私のポートをマネージできるというのですか?」
「いや、勉強中でして」
「ひと月も『負け』無く、あと12か月運用できますか?」
「12か月ですか」
「私が担当して、36か月、1か月も負けなしに月次決算をしてきました。
 東北は結果しか見ないですよ。
 ひと月たりとも負けなしで運用できますか?」
「いや、そこまではまだ」
「では、なぜ津軽に行く必要があるのですか?
 私が渡辺さんを連れていったら、担当交代かと思いますよね?
 先方の担当者はどう思うと考えたのですか?」
「え、そこまでは」
「じゃあ、どこまで考えたのですか?
 先方は私に大切な資産を預けて、毎月負けなしの結果を期待しているのですよ。
 私は負けがないよう、心血注いで運用しています。
 君の勉強のために運用をしているわけではないし、津軽銀行も資格取り立てのファンドマネージャーにマネージしてほしいと思っている理由は何ですか?」

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