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2014/07 第91号「お葬式に子や孫を」

 開教のため、長野市から佐久市にお寺の拠点を移して六年半になりました。慣れない地に転居をしてみると、正直なところご近所の方とのお付き合いも大変です。特に、順番でお役などが回ってくると、初めての事ばかりで面倒で厄介なものだと愚痴もこぼしたくなります。
 話しは変わって、佐久の観光名所にもなっている〝ぴんころ地蔵〟があります。健康で長生きして(ぴんぴん)、寝込まず楽に往生する(ころ)をヒントに命名されたそうです。家族に面倒や厄介をかけずに往きたいという願いが込められているのでしょう。
 どちらも、出来れば避けたいという、皆さまも何かしらこんな思いをされた経験があることだと思います。
 この面倒や厄介事は、仏事でも同様にみられるようになり、お葬式の簡素簡略化は最たるものです。手間や時間がかかる面倒なことは避け、家族や親族など人間関係も厄介だと避けるようになってきたからでしょう。人に厄介になりたくないとか、厄介なことは避けたいといった一方的な見方が先立って、本来の意味やそのものをも否定してしまうことは寂しい気がします。
 以前、タレントの石原良純さんが、今の若者に対してテレビでこんなことを言っていました。「今の若者は無駄なことをしなくなった。無駄なことと分かれば何もしようとしない。昔は子供の頃、大人から見ればこんなこととという無駄なことをしながら成長していった。」その通りだと思いました。何でもネットで調べれば簡単に分かる時代に育った子供だからでしょう。
 先日、佐世保で同級生を殺害したという信じられない痛ましい事件が起きたばかりです。事件の全容はこれからですが、「解剖を人間で試したくなった」と逮捕された高校一年の女子の供述を聞くと、成績は良くて万能だそうですが、人の生き死にに関する面倒や厄介事は無駄なこととして知らずに成長していったのではと思えてなりません。
 面倒や厄介事は無駄なことではありません。その過程を通して、様々なつながりを持ちながら、家族や地域の人ばかりでなく、いろんな生き物のいのちを通して生かされているのだと気付かされたとき、初めていのちは尊いと感じるものです。何でもプロセス(過程)が大事です。
 人の死は忌み嫌うものではなく、いのちの尊さに気付かされる出来事です。子や孫にすすめてお葬式に出る場を与えてほしいものです。

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