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2016/04 第98号「信の一念・行の一念」

 我が家の娘は、四歳、保育園の年中さんになりました。物事の判断が少し分かるようになって、生粋な面も出てきました。先日も、食前のことばが無かったと逆に親が注意されてしまいました。しっかり子供に見られています。
 そんな面もありながら子育てに励んでいると、一つ感じたことがありました。それは、子供はまだ未熟ゆえに、言葉と行動が伴わないことが多いということです。たとえば、玩具で夢中になって遊んでいて、私が「ご飯にします。手を洗ってきて下さい。」と言うと、「はーい!」と元気な返事が返ってきます。しかし、私が配膳を始めても、遊びに夢中で一向に動こうとしません。再度、顔を見ながら確認をしますが、まだやってくれません。とうとう私も堪忍袋の緒が切れてしまい娘とバトルが始まってしまいます。よくある光景ですが、どうしたものなのか、どなたか策がありましたら教えて欲しいです…。
 この言葉と行動のように、二面性のある表現に関して、親鸞さまは『親鸞聖人御消息』というお手紙の中に次のようにお示し下さっています。
 信の一念と行の一念とは 言葉は二つでありますが、信を離れた行もありませんし、行の一念を離れた信の一念もありません。なぜなら、行というのは、本願に誓われている名号を一声称えて浄土に往生するということを聞いて、一声でも称え、あるいは十声でも称えることをいうのであり、この本願を聞いて、疑う心が少しもないことを信の一念というのです。ですから信と行とは二つではありますが、名号を一声称えて往生すると聞いて疑う心がないので、行を離れた信はないとうかがっています。また、信を離れた行もないとお考えください。これらはみな阿弥陀仏の誓いであるということを、心得なければなりません。行と信とは、本願のはたらきをいうのです。
弥陀の本願を疑いなく信ずる心(信心)と、念仏を称える(称名)という浄土真宗の二つの要は、それぞれ離れた二つのものではないと言われています。念仏は私の行い(行)だから信心とは無関係ということではなく、私たちは阿弥陀仏からの念仏(行)によって救われ、それを少しも疑う心がなく聞き入れられたことを信心といわれます。
 私は、娘の「はーい」という少しも疑う心のない返事に救われているようです。

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