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2015/07 第95号「明日ありと思う心の仇桜」

 お盆の時期は、お寺、お墓へと多くの方がお参りをされます。そこで、お寺では、境内のお掃除に追われる時期でもあります。特に、草刈りは欠かせないものです。お天気に左右されることなく、草だけは何をしなくても元気に生えてきます。刈った先からしばらくするとまた生えてきて、私も草刈りに追われています。
 ところで、私は先月から、普段、空いた時間に、近くの臨済宗のお寺さんへ、主に草刈りのお手伝いに行かせて頂いています。裏に山もあるほど境内地が広いため、境内地整備の仕事をさせて頂くことになりました。通称、〝ビーバー〟と呼ばれる草刈り機を使って、参道、墓地、畑から山へと至る所に生えている草を刈るわけですが、最初は慣れない作業に戸惑うことばかりでした。
 臨済宗というと禅の教えです。作業の休憩中に、お寺の境内を歩いていると、所々の禅語といわれるものにハッと気付かされています。先日は、『日々是好日』という禅語に出会いました。文字通りには「毎日が平安で無事の日である」と訳されますが、「時、人を待たずであり、はたして明日という時があるとは限らないではないか。この一瞬のところを大事にせよ」というのが大まかな意味だそうです。よく掛け軸の書などで拝見しますが、不勉強で意味を初めて知り、ハッと親鸞さまにも通ずる所を感じました。
 それは、親鸞さまは、九歳で得度をされ仏門に入られますが、夜だったため明日に得度式が延ばされそうになった時に、有名な歌を詠まれました。
 明日ありと思う心の仇桜
 夜半に嵐の吹かぬものかは

「今、美しく咲いているこの桜を、明日も見ることが出来るだろうと安心していると、夜中に強い風が吹いて、あっという間に散ってしまうかもしれない」という意味で、自分の命を桜の花にたとえられて、「明日の命はどうかわかりません。今この場で得度させて下さい」という決意が込められています。
 皆さんも、「明日やれば…」と思って先延ばしにしてしてしまって、物事のタイミングを逃してしまった経験が一度はあると思います。障りがなく穏やかに過ごす日々ではなく、この一日、一瞬は二度と来ないから、かけがえのない一時であると実感するところに、まさに日々是れ好日となるのでしょう。

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