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2013/09_10 第89号「大切な方を亡くすということ」

 葬儀のお経の後、法話をさせていただきますが、「○○様は、阿弥陀如来に導かれ浄土へご往生されました」と、決まったお話になってしまいます。変わらないお話で、ある方には楽観的に捉えられているのではと心配してしまうこともあります。
 それは、大切な方との別れによるご遺族の悲しみや苦しみを乗り越えられるようなことばが見当たらないこと、また、亡くなると同時に、通夜、葬儀といった儀礼的な席が待ち構え、そんなことを考えられる余裕が無いからでしょう。しかし、決まったお話でも大切な仏の教えをしっかりお伝えしています。
 ご遺族にとりましては、問題は、その後なのでしょう。ある方にとっては、突然の出来事で無力感を感じてしまったり、故人がどんな思いで亡くなっていったのかということを考える方もおられるでしょう。
 この十月二十四日付の信濃毎日新聞に、作家の大江健三郎さんが「晩年様式集」という新作を出版したという記事を見ました。東日本大震災と福島の原発事故後に始めた文芸誌への連載によるものです。記事によりますと、「無力感の中の楽観」と題して、震災や事故によるどうしようもない無力感の中で、それでも生きていこうという未来への希望を表現した作品のようです。
 考え方や思想に関しましては様々な見方があると思いますので控えますが、その中でも、「死者の言葉を考えることは、生きている人間にとって非常に大切なこと。それは僕の根本的な文学観の一つ。『あなたが〝翻訳〟した死者の言葉は正しくない』と批判されれば、理解したことの浅さ、ゆがみを発見できる。そのようにして死んだ人のことを理解していくのではないか」という視点には私も共感できるところがあります。
 葬儀を通して、亡くなられた方やご遺族のことを何一つ知らない私が、「必ず救われていますよ。ご安心を…」などと軽々しく言えるものではないと考えるからです。
 浄土真宗の救いを端的に表現すると、
 本願を信じ念仏もうさば仏になる
という『歎異抄』のおことばです。心から本願を信ずることは難しいですが、故人の人柄やご遺族の思いなどを感じる中で、仏さまからの願いである〝本願〟に通ずるものがあって、初めて「救われている」と、心落ち着かせることばがかけられるのでしょう。

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