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2016/01 第97号「「懐かしさ」にふれるということ」

 近年の、核家族、少子化といった社会問題は、当然のように仏事にも大きく影響を与えています。その中でも、葬送のあり方は、ここ数年の間に様変わりしています。「昔からこうするのが当たり前…」という俗習めいた言葉は、敬遠される時代になりました。
 ところで、佐久市に万行寺の拠点を移し活動していますと、浄土真宗という宗旨にこだわってお寺を頼ってこられる方が多く見受けられます。取りあえず近くのお寺さんにお葬式は頼もうかといった方もおられますが、浄土真宗の教えは、離郷をしても、どこか「懐かしい」教えであることに気付かされます。
 先日、故郷が京都で、所属するお寺さんも京都にある方の葬儀のご縁をいただきました。遠方ということもあり、私はそのお寺さんの代わりにお勤めだけをさせていただくというご縁でした。葬儀が終わった後に、控え室で故人のことをたずねながら短いお話しをしたところ、喪主の方から、目を潤ませながらこんなお話しをいただきました。「私の仕事の都合でもって、長年、故郷も離れてしまい、お寺さんや仏事に関わりが無くなっていたためか、本当に懐かしい思いで正信偈を聴かせていただきました。」子どもの頃からよく聴いていた、お寺さんの正信偈のお勤めを思い出したようです。子どもながらに、大好きなお寺さんとお話しをすることが本当に楽しみだったそうです。そんな「懐かしさ」がこころに響いたのでしょう。
 この正信偈は、親鸞さまの作ですから、浄土真宗のみ読まれているものです。他宗にはありません。御同朋御同行と言われるように、ご門徒であれば誰しも、この正信偈を聴けば、「懐かしさ」と共に心安らぐ一時をいただけるのだと感じました。正信偈のお勤めが、本当の意味で人のこころに響いた瞬間でした。
 親鸞さまは、晩年は関東から京都にお帰りになり過ごされました。その訳はわかりませんが、心安らぐ懐かしい思い出の場所へ戻られたのではないでしょうか。私も、長年過ごした場所を離れてみて、「懐かしさ」の大切さを味わわせていただいてます。お念仏の救いに遇うということは、この「懐かしさ」という感覚は欠かせないものなのでしょう。

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