見出し画像

2014/10 第92号「御恩「おかげさま」の生活」

 終わりの「お知らせ」欄にふれましたが、先日、SBCラジオ出演のための収録を行いました。ラジオですから、顔が出るわけでもなく、後で編集が出来るにもかかわらず、緊張して今は何を話したか覚えていないような状況です。アナウンサーからの問いかけに答えていくという流れでしたが、プロの編集の技に期待をして聴かせていただきます。
 収録の最後のほうで、私から一言ということで、次のようなお話しをさせていただきました。
 それは、「おかげさま」という言葉についてでした。社会経験も何もかも未熟な私が、お寺の拠点を佐久市に移すなどということは、本当に出来るのかと不安なことばかりでした。転居をしてこの十二月で七年になります。縁もゆかりも無い地で、先ず、お寺を知っていただくことから始まり、ご縁も徐々に広がりつつあります。その中で、待望の子も授かりました。
 大げさなことかもしれませんが、〝もう〟なのか、〝まだ〟なのか、七年という歳月を複雑な思いであらためて振り返ってみますと、「おかげさま」という言葉が心の底から自然と出てくるような心境になってまいりました。
 この「おかげさま」に関して、本願寺第八代蓮如上人は、『蓮如上人御一代記聞書』に仰っています。
 万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なり
(現代語訳)
 何ごとにおいても、善いことを思いつくのは仏のおかげであり、悪いことでも、それを捨てることができたのは、仏のおかげである。悪いことを捨てるのも、善いことを取るのも、すべてみな仏のおかげである。
物事を成し遂げることだけではなく、日々の暮らしそのもの、何もかもが、御恩「おかげさま」の中の生活であるということです。
 私たちが称えるお念仏「南無阿弥陀仏」は、そのすべてにおいて仏さまの御恩に感謝させていただく「おかげさま」のこころを意味します。決して救済や見返りを期待して何かを願うような呪文などではありません。
 この度のラジオ出演のご縁も、あらためて自らを振り返る機会をいただき、「おかげさま」と感謝申し上げるばかりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?