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2013/08 第88号「随い順ずる心」

 この八月二十七日付の信濃毎日新聞に、「八十六歳シスター生き方を指南」と題し、渡辺和子・ノートルダム清心学園理事長の「置かれた場所で咲きなさい」という本の紹介記事がありました。内容は、自身のこれまでの人生で感銘を受けた言葉や詩などを紹介しながら、自分らしく前向きに生きるすべを平易に説いているのが特徴で、少し興味があるので買ってみようと思っています。
 続けて、記事によると「暗い表情を出さずに生きる。自分に与えられた環境、ポジションを嘆かず、その場で〝咲く〟ことを説く」とあり、仏教の教えとも共通しているなと思いました。
 それは、公私ともにお育ていただいた今は亡き恩師が遺した言葉の中にありました。
 環境に支配されたと思った時に、いち早く心は窮屈にうめく。そして、環境を支配しようとの無理にでるか、それから逃げようとする弱さにでるかのどちらかである。
 だが、本来、環境は人を支配したり、人に支配されたりするものではないのだ。
 むしろ私は環境を与えられたものとして自己形成の場としてうけとりたいのである。
 自己を育てる場として、順いたいのである。そこには、支配する、支配されるの無理や窮屈はさらさらない、どころか、私を育ててくれるさまざまな意味を教えてくれる大切な場所であることに気づかれてくるのである。この随い順ずる心を教えてくれるのが仏の教えと聞かされた。

 普段使われる支配したりされたりという〝従う〟ではなく、〝順う〟と〝随う〟である。合わせて〝随順〟という表現もある。
 私は、長野市の万行寺という寺で将来は代を継ぐべく長男として生まれ、先代が亡くなると必然的に住職を務めるといった環境の下で育ちました。また、多くの方々にご心配ご迷惑をおかけする中で、長野市で三百年続いた寺を佐久市に移転させていただきました。置かれている環境において、これまで無理や窮屈を繰り返してきたのではと省みるばかりでした。
 しかし、恩師の言葉、環境にこだわるのではなく、自己を育てる場として、順っていると気づかされると前向きに考えられるようになりました。
 また、置かれている環境だけではなく、近年の自然環境に関する諸問題の解決にも当てはまるのではないでしょうか。支配したりされたりするものではありません。

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