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2015/10 第96号「良い居場所をいただく「房舎施」」

 万行寺の活動拠点を佐久市に移して、この十二月で八年になりました。まだ本堂も無く、住居の一室を仮本堂にしているような状態ですが、狭いながらも門信徒方々と語らう場として少しずつ軌道にのってきたような状況です。
 しかし、長野市で三百年余にわたって門信徒はじめ地域の方々にも愛されていた場所を離れ、何も所縁の無い佐久市という地にお寺の拠点を構えるということは、並大抵なことではありませんでした。まずは、地域の方々にお寺のこと、そして家族のことを知っていただくことから始まります。入口に寺の看板はあっても本堂などの寺の構えも無いので、不思議そうに覗いていかれる方ばかりでした。地域の事にも関わりながら、少しずつ知られてきたようです。また、最近は、子どもが生まれた事を機に、お付き合いも少しずつ広がってきました。
 気がつけば八年経ってみて、お付き合いも増えて、やっと「住んでいるな」という実感が湧いてきたような気がします。それは、これまでの私は、「ここに来て良かったのだろうか?」とか「ここに居て良いのだろうか?」と不安に思うことが、正直、度々あったからです。
 ところで、仏教では、他に与え施すことを〝布施〟の行といいます。〝御布施〟と書いて財物を施す「財施」が一般的ですが、他に、財物を持たずして施しが出来るという「無財の七施」が説かれています。七施というように、七つあるわけですが、その七番目に「房舎施」というものがあります。これはお釈迦さまがおられたインドにあっては、旅人が体を休める家が少ないところから、自分の家をきれいにして休息を欲する人によろこんで場を提供することの大切さを説いたものでした。いつでも来客に良い場所を提供するように心がけることです。
 私は、この「房舎施」という布施行の意味を味わうと、ここに来て良かったのか、ここに居て良いのかという不安だったことが心からの感謝に変わってきました。この地域で長年住んでこられた方々のことばかり考えてしまい、素性も分からない者が何をしに来たのかと思っているに違いないと勘違いしていました。そうではなく、地域や大勢の方々のおかげによって、「私はここに居て良い」という最高の居場所をいただいているのだと気付かされました。厳しいけれど素晴らしい居場所をいただきました。

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