なにも持たないぼくたちは

昼休みに家から持ってきたカップラーメンにお湯を注いでいると、後ろから「須崎さんって意識高そうなのにそんなの食べちゃうんだね」と話しかけられ、心臓がはねた衝撃でラーメンを全部落としそうになる。
あぶねえだろてめ背後とってくんな、とは言えないので、「わーびっくりしたあ、最近野菜ばっかり食べてたから急に濃いもの食べたくなっちゃってぇ、誰にも言わないでくださいねぇ」と笑いながら振り向く。
慌ててラーメンを持ち直した手のひらが痛い気がする。沸きたての湯がかかったんだろう、クソ。
話しかけてきた係長の宮田はまだ何かしゃべろうとしていたけれど運よく社用ケータイが鳴って去っていった。昼休み時だろうがお構いなく電話してくる取引先に心から感謝する。
今日は水曜日で、水曜日は事務の先輩たちが全員で外に昼食をとりに行くという謎文化があるから、ひとりでゆっくり営業所でカップラーメンが食べれると思って毎週楽しみにしているのに。営業の男どもはみんないつものように連れ立って出払っていると思っていた。(わたしに同期はいない)貴重な昼休憩の時間が刻々と流れていく。
昼休みだってんだから話しかけてくんなよ、お前と話すのは給料が発生する間だけって決まってるだろ。

いつもはできないこと、をしているという背徳感と、確実に内蔵にダメージを与えてくる酸化した油となにでできてるのかわからない中毒性のある激辛調味料を味わうことが、職場で過ごす長くて終わりのない時間の中で唯一の娯楽だなんて、他人から見たら終わっている人生なんだろう。
だけど、実はそこそこ楽しい。週に1回だけ、ひとりで、応接室のテレビをつけて激辛カップ麺を真顔ですすっているこの時間を輝かせるために、単調な毎日を過ごしているのかもしれない。

きっと私の人生には、ドラマみたいに劇的な展開は訪れない。人生を揺るがすようなビッグイベントは起こらない。自分の人生を全部捨てて一から作り上げていく気力は、もう沸かない。
刺激なんてこれくらいでいい。
月に1,2回友達と会ったり、ひとりで飲みに行って隣り合わせた人と盛り上がって死ぬほど笑ったりすることもあるけど、どうせすべて忘れてしまう。忘れたくて飲んでいるのに、次の日の朝に言わなくていいことを言ったあとの後悔の残滓みたいなものがまとわりついたまま目覚めたり、顔も思い出せないのに「またのも!」と知らないアイコンからラインがきていたり、そういうことは、素面の現実を生きる朝を迎えたわたしには、うっとうしくてたまらない。
相手からしたら酒を飲んでいる自分も明るい時間の真顔なときもすべてが同一人物であることが当たり前で、だから当然のように昨日と今日を地続きとして扱ってくる。だけどわたしにはそれが理解できない。
恥ずかしいから飲酒するのに。恥ずかしいから普段擬態して過ごしているのに。どうしていついかなる時も相手が自分に【本当の姿】を見せていると思い込むことができるんだろ、おめでたいな。おめでたくて、心底うらやましいな。
相手を信じることができる人ってたぶん自分を信じることができている人なんだろなと思うから。

昼休みを3分間邪魔されただけでこんなにも思考が広がる。
次から次へとろくでもないことが派生していくこの頭の中を誰かと共有したり言葉を重ねて膨らませたりブラッシュアップして世界を広げようとすることは、めんどくさい。
めんどくさくて、しかも口にするとそれはすぐに壊れて形を変えて、わたしが本当に思うようには絶対相手まで届かない。
なにを考えているのかわからない、もしくは考えすぎていて先を行き過ぎていて会話になっていなる、などと評価されてきたことはあるけれど、本当に考えていることなんて自分以外の誰かに教えてたまるか、という気持ちで生きている、これが答え。

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