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正確を「期する」方がいい

 2012年8月29日の朝日新聞の見出しを見て、ついにこういう表現が出たか、と驚いた。

「日韓、同じ味を愛す私たち」

 キムチが日本の生活の一部になっている等という記事だったが、ここで問題にしたいのは「愛す私たち」である。この場合、「愛する私たち」とするのが正しいと思う。
 スティービー・ワンダーの曲『Sir Duke』は邦題『愛するデューク』だが、これが『愛すデューク』だったとしたらかなり違和感があるでしょう?
デュークも私たちも名詞(体言)なので連体形の「愛する」でなければダメなのだ。
 冒頭で「ついに」と書いたのは、「愛する」以外の同様の動詞では、この書き方が既にあちこちでなされているからである(同様の動詞というのは、音読みの漢字に「する」がついて動詞化した言葉のこと)。

 手元にある、近頃たまたま読んだ本をめくってみても、
・「それまでのかつお節や魚の粉末タイプとは一線を画すものだった」 (『日本人には二種類いる』岩村暢子・新潮選書)
・「日本語ではこれを『周転円』と訳すことになっている」(『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』青木薫・講談社現代新書)
・「われわれが存在するという条件を課すことにより」(同)
・「“忌み御免”をもって喪に服すことをせず」(『天地明察・下』冲方丁・角川文庫)
・「体ぜんたいが煙と化すと、煙は渦を巻いて凝縮しはじめた」(『時を生きる種族』創元SF文庫)
 など、けっこう見つかる。しかし「愛す」というのは中でも違和感が大きいと思っていたので、それを初めて見て驚いてしまった訳である。

 動詞の活用表(未然・連用・終止・連体・仮定・命令)でいうなら、「愛する」や「画する」の活用語尾は、口語の場合だとサ行変格活用で、
〇 し(さ)・し・する・する・すれ・しろ(せ)
 となり、「愛す私たち」のように「す」になることはない。なので、「愛する私たち」「画するもの」「訳すること」「課すること」「服すること」「化すると」とするのがよい。

 ちなみに文語動詞の場合の「愛す」だとしてもやはりサ変で、
○ せ・し・す・する・すれ・せよ
 と活用するので、連体形は「する」でやっぱり「愛する私たち」としかならない。同じ形の言葉は、ほかにも「託する」「賞する」「食する」などいろいろある。

 まあ実際は、いちいち文法はああだこうだとか考えながら文章を書くわけでもないのである。もっとシンプルに、「同じ味を愛す私たち」はなんか落ち着かなくてヘンだな、と思える語感が大切なのだと思う。
 早い話が、「メールする人」とは言うけど「メールす人」ではおかしいよね、ということだ。この「メールする人」を覚えておけば、「愛する人」や「画するもの」の時でも間違えずに済むと思う。

 ところで「感」「禁」「存」など、「ん」で終わる漢字が動詞化する場合は、「感じる」「禁じる」「存じる」というふうに語尾が「じる」に変わることが多い。
 この場合の活用語尾は、
○ じ・じ・じる・じる・じれ・じろ
 となって、上一段活用に変身する。しかし「冠する」「淫する」などの例外もあって、これらはサ変のままなわけである。
 しかも以上の例は、文語の場合だと「感ず」「禁ず」「冠す」「淫す」などとそのすべてがサ変であって、いろいろ複雑ではある。

 余談。
 上記は、「する」とすべきところを「す」としまっている例だった。それとちょうど逆で、「す」の方がいいのに「する」とされがちな言い回しがある。
 「すべし」「すべからず」と書くべきところが、「するべし」「するべからず」となっていることが非常によくあるのだ(実際は「するべし」という言い切りよりも「するべきだ」のように連体形で使われることが多いが)。
 これは、「べし」という文語助動詞に対する接続なのだから、あくまでも「すべし」「すべきだ」というふうに、動詞の部分も文語の「す」を使うべきだと思う。何といっても、その方が絶対に文章が締まる。

 小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』ではしばしば、何か主張するときに
「~するべき!」
 と結んでいる。どうも力が抜けるというか、なよっとした、中途半端な印象を受ける言い回しだ。ゴーマンさが薄れる。
 ここはやはり「~すべし!」と言い切るべし!

(2014.1初稿/2020.7改稿)

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