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おとなりにいたねこのはなし

「柄にもなく、きのうからねこを飼い始めまして」と苦笑いするように、でも目元を緩めながら高野さんは言った。

ぼくと高野さんは新宿区と中野区の狭間くらいにある、そこそこ築年数も経った六畳に二畳のキッチンとトイレがついて月々5万2千円の安い賃貸アパートの数年来のお隣さんだ。
なかなかに律儀なかたで、こんな安アパートだというのにきちんとお蕎麦を片手にお引越しのご挨拶にいらしたことをきっかけにお知り合いにはなったのだけれど、キャンパスとバイト先の往復に明け暮れている大学生のぼくとかたぎのサラリーマンらしい高野さんとは結構生活サイクルが違うようで、ほとんど交流はないし、安アパートの壁越しにもあまり生活音を感じたこともない。

で、秋晴れの3連休中日の昼下がり、なんか食べるものを調達しにコンビニへ行こうとドアを開けたところで、どこかから戻ってきた高野さんとばったりと出くわしたというのが、今のシチュエーション。

うん、ばったりと。…わかい女のひとを連れた高野さんと。
おやおやーって思いながらひょいと会釈してすれ違おうとしたところで高野さんが言ったんだ。「柄にもなく、きのうからねこを飼い始めまして」って。

「ねこ、ですか」
「ほら、この先の公園。わたし、毎日仕事上がりに散歩がてらあの公園に立ち寄るんですけどね。一昨日の夜、この子と目が合いましてね、なんとなく話し相手になってもらってたら、いつのまにか部屋にまでついてきてしまって」。

「へえ、そうなんですね」
「どっちかといえば生き物を飼うどころか、誰かといっしょに暮らすのだって苦手なほうなんですけどねえ」
「えーそうなんですか」
「それだから一人暮らしが長いんですよ」
「高野さん、そんな風には見えないですけどね」

ねこ、ねえ。
あたりさわりのない相槌をうちながら、このアパートってペットNGだよなあ、大家さんにバレるとまずいよねえ、とぼんやり考える。

…ところでさ、そのねこの姿がどこにも見えないんだけど。後ろの女のひとが抱えてるのかな。
ってゆーか、考えてみるとこのひとのほうが謎だよね。
なんとなく娘さんくらいな年恰好なのだけど、実はご結婚されてて単身赴任…って雰囲気じゃなかったけどなあ、高野さん。

「高野さん、よかったらぼくにもねこさん見せてください。あ、でも逃げちゃうかな」
「え。ああもちろん。きっと大丈夫ですよ、ほら」
と、高野さんは女のひとの肩に手をあててぼくのほうへと押しだした。
あ、やっぱり、とちょっとだけこわばった笑顔をした彼女の腕の中をのぞき込んだ。
そこにはなにもいなかった。
「え。」
「ね。かわいいでしょう?」と高野さんが言って、女のひとが気恥ずかしそうに微笑んだ。え?
ちょっとした沈黙のあと、彼女はくるりと踵を返し、高野さんの手を引いて隣の部屋に向かう。
「あ…」
「すみません、ちょっと人見知りしてるのかな。また今度」
手を引かれた高野さんがドアの向こうに消えて、ばたんと音がした。

「なんだ、いまの?」
身の翻し方がなんとなくねこっぽい仕草だったなあ、とぼんやり思いながらぼくはとりあえずコンビニに向かった。おなか空いてたからね。

その夜。あの女のひとは高野さんの部屋にいるようだった。
ぼくはなんとなく息を潜めてお隣の様子をうかがっていた。
いくらなんでもいきなりお醤油を借りに行くわけにもいかないし、作りすぎたお惣菜をお裾分けしに行くほど料理ができるわけでもないしさ。
とはいえなんだか後ろめたい行為をしているような感じがして、ちょっとだけ嫌な気分だった。

壁越しに、ときおりうっすらと高野さんが何か言っているのが聞こえた。低くて穏やかな声だった。
ねこの鳴き声はしなかった。

公園、深夜。
あの女のひとがすべり台のてっぺんでちいさな三角を作っていた。
ぼくはすべり台の下から声をかけた。「にゃー」
すべり台の上から「にゃ」って、小さな返事が返ってきたと思ったら、うつむいて首をすくめるようにした三角座りがずるずる降りてきた。
「ねこさん、ですか?」「…にゃ」ちょっと不機嫌そう。しかたないか、ねこだもんな。
「高野さんち、戻んないんですか?」

今度はだいぶ間があって切なげなこえがした。「…なー」

それから、ぽつぽつと彼女は話し始めた。日本語でよかった。さすがに、にゃーでフルコミュニケーションできる自信はなかったよ。

あのね。一昨日の夜ね。ここで高野さんだっけ。あのおじさんと会ったの。
ああ、こまかいことは話しても伝わらないと思うしそれを聞いて欲しくて話すんじゃないから端折るけど、わたし、ここ数日ほんっとーにいろいろあってさ、とにかくもういっぱいいっぱいで、ちょっとつつかれたら、わーって泣きだしそうな、こんな状態でうちに帰りたくなくて。

…ああ、一人暮らしよ。線路挟んで向こう側のそこそこ近所に住んでる。

といって気晴らしにどこかに行く気力もないし、そもそもあんな気持ちでどこかに行ったって楽しめるわけないし。それでふだんはあんまり来ない駅のこっち側の公園で、コンビニで買った酎ハイ片手にぼーっとしてた。

そしたらさ。「きみ、ねこみたいだ」って言われたの、突然よ?
「なんですか?」って、たぶんわたし露骨に喧嘩売ってたと思うんだけど、ナンパにしちゃやけに人の良さそうな顔で、高野さんにこにこしながら言った。
「ずいぶん所在無げだけどどことなく張りつめていて、なんだか夜の冒険に出るまえのねこみたいだなって。失礼でしたか」「失礼っていうか、よくわかんない」

そこからなんだか、いろいろとねこのことについて話してくれた。正直あんまり聞いてなかったけど、わたしにむかって一生懸命話してくれているのはわかった。初対面で、ほぼガン無視されてるのに。

それで。

「あーもういっそ、ねこになりたいなあ。ねえ、私がねこになったら飼ってくれますか?」
そう言ったの。

随分悩んだような顔をして黙り込んだ後で、高野さんこう言ったわ。
「生き物を飼うのは苦手なんですけど、それでも一緒にいることぐらいはできるでしょう。おいでなさい」って。

え、マジで飼うんスか?って思った。どう考えてもおかしいよね、あのひと。
でもなんだかうれしくて、どこかふわふわした気持ちになって、それで昨日の夜、わたしはあのうちのねこになったの。

ひとばん、ことばつかわないで、摺りついたり膝に乗ったり、なでてもらったり。
あったかい毛布ももらったけどそれじゃ満足できなくて一緒の布団にもぐりこんだ。
うちに居ついたばかりのねことしては、ある意味で破格のサービスだったんじゃないかと思うんだけど、どうかな?

「生のサンマとか出てこなくてよかったですね、駅前スーパーの昨日の特売だったけど」

そうね。生魚は勘弁してほしいかな。キャットフードもお断り。
美味しい鰹節のたっぷりかかったごはんはうれしいかも。

でもまあ、そろそろねこでいるのもおしまい。あのおじさんによろしく伝えて。

そういって彼女はふいに二本の足で立ち上がった。
その顔にも仕草にも、もう、ねこらしいところはなかった。
そして、こちらをふりむかず、まっすぐに公園を出て行った。


翌朝、物音がするのを待って部屋の前に出てみると高野さんが立っていた。
「ねこ、出てっちゃいました」
「やっぱりかまい過ぎたのかなあ。それともなにか気に入らない臭いでもしたのかなあ」
少し寂しげで照れくさそうな高野さんの顔を見ながら、あのねこ、やっぱり最後までねこだったんだなと、ぼくは思った。

高野さんちに3日だけいた、ねこの話はこれでおしまい。

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