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食べることとわたし(仮)その2

えっと、つづきです(あとがきじゃありません…ってどのくらい通じるんだろ(その1はこちら→ https://note.com/manet26/n/nb2f03f0c9756 )

 よく聞かれるのですが、わたしが本格的に「ごはんをつくる」をはじめたのは大学に入学して独り暮らしを始めてからです。最近では「え、30年くらい前ですね、わたしまだ生まれてないです」とか言われるようになってきましたが、それはともあれ。

高校までは家事全般のなかで洗濯と掃除が主務。お茶やコーヒーを淹れるのは小6からほぼ専任扱いだったけど、台所まわりでは「庭から大葉やパセリを摘んでくる」とか「鰹節を削る」とか、せいぜい「いい感じになるまでなにかを炒める」ぐらいで、包丁を使わせてもらえたことすらなかった。
あ、あと盛り付け!お皿選んで、それらしく盛り付けるのはやってた!好きだった!

それがまあ。
1989年春4月、高円寺北口高架下の「4畳半+3畳の台所(風呂なし)」のおんぼろ下宿に、真っ赤な2口コンロを据え付けて毎日のご飯を作り始めて3週間もすれば「これはえらく楽しいぞ」という自覚が芽生えます。

これまでは実際に手を動かしていたわけではないので食材の切り方は目の記憶、調味料のバランスは舌の記憶。インターネットもない時代、レシピ的に頼りになるのは独り暮らしを始めるにあたって母親から贈られた「ひとつの鍋でできる料理」(著:本谷 恵津子/ 婦人之友社)…じゃなくて毎日の食卓の記憶。門前の小僧の底力。

いまでもそうですが、この頃からわたしにとって「じぶんのためのご飯づくり」はよく聞く「ルーティンの苦行」では全くなく、「作るたのしさ」が「食べるたのしみ」を補完するものでした。「ぼっち飯だから遊べること」ってほんとうにたくさんありますし、そもそも作りたくないときは作らなくていいんだし。

さらに、一人暮らしになっての大きな変化として自由に「外食」ができるようになりました、もちろんお財布の都合はありますけどね。
大学生になって最初に連れていっていただいたレストランは新宿のアカシヤで、その夜初めていった飲み屋が西荻の北口戎だったあたりが、もうその後の人生を規定しているようにも思えます。

ちょうどバブルの盛り。
美味いものを美味いまま都心に届けるべくトラック流通が大進化を遂げ、地方の銘酒を「銘柄指定」で冷酒で飲めるようになり、「ワインとチーズのマリアージュ」なんてことをさも当たり前のように前髪の立ったOLのお姉さん方が語りそいつをどうにかお持ちかえりしようとするお兄さん方がパッドの入った肩をすくめて見せる。そんな時代の片隅で芝居ばかりやっていた大学生活…の話はまたいつかどこかで。

ともあれレストランだったり飲み屋さんだったり、これまで味わったことのない食べ物や飲み物の味を知り、これまで味わったことがあるつもりのものの「幅広いバリエーション」に触れ、盛り付けや作法を覚えること、そうして自分なりの「美味い」を確かめ、記憶にストックすることはその頃も今も、いつだってワクワクするものでした。

ここ五年ほどは、明らかに身の丈を超えたような素晴らしいお店にもお誘いをいただけるようになりまして、新たな味覚体験(というか、ああいったお店での食事って「五感の体験」ですよね)をさせていただいていますが、築かれた土台があってこその「味覚の革新」、日々通わせていただくお店での味覚の積み重ねというものもやっぱり大事なのだと思います。

ちなみに、これもときどき聞かれるのですが、わたしは「食べたものの味の再現」にはこだわらないしこだわれないほうです。ある程度「あれは美味しかったな、こんなバランスで作るんだろうなあ」と想像しながら作ることはあるけれど、それは「再現する」というより「自分の中に取り込んでいく」感覚であるような気がします。

さて。

それなりにおいしいごはんを作れるようになったりご贔屓のお店ができたりすると、そこから「誰かに食べてもらいたい。感想がききたい」という欲求が生まれるまでさほどの時間はかかりません。そこはみなさま容易に想像のつくところではないかと思います。

わたしもご多分に漏れずだれかに自分のつくったものを食べてもらうのが大好きですし、誰かと過ごすなら、せっかくだから一緒に美味しいものを食べたいですよね。

とはいえ、そんな気持ちが空回りした失敗も数あるもの。
あのときは申し訳ないことをしたなあという記憶とともに、いま気を付けたいなあと思っている事を3つほどつらつらと書きだしてみようと思います。

…や、ここ実例サンプルで埋めようとしたんですけど、何人か当事者が読める立場にいるしなあって(今更クレームもつかないだろうけど

まずひとつめは「これ美味しいよ」という味覚の強要をしないこと。

よく聞きますよね「友人から紹介された美味しいラーメン屋は地雷」ってやつ。
まあ「あのひとには美味でも私の口には合わなかった」で済ませられたらいいのですが、これが宅呑みの場で作ったものを食べてもらうとかになると、ちょっと複雑なハナシになりがちな気がします。それが奇をてらって組み合わせた食材とか、必要以上に凝った調理とか、妙に力を入れていればなおのこと。豪華系BBQとかでありがちですけど、ぶっちゃけ「これ美味しいよ!」「自信作だよ!」って自慢気に出された素人料理、実際の味はともかくとして、雰囲気的にあんまり美味しく感じないこと多いですよね。
わたしも若いころには「この自信作を仲良しのみんなに食べてもらって、美味しいって言ってもらいたいよー」って承認欲求みたいなものバリバリで作ってましたから、なかなか面倒くさいヤツになってたんだろうと思います。

なので、最近宅呑みの場で料理を出すときに心掛けているのは
「オーソドックスなものを丁寧に作って、危なくない範囲でちょっとひねる」
「出すときには、とりあえず名称的なものだけ告げる」
「美味しいと言ってもらえたら、できるだけ簡潔に解説する」
「内容や調理法に興味を持っていただいたり、話が広がりそうであれば喜んでお話しする」

ふたつめ。そこがリラックスできる場になるよう心がけること。

「緊張で味がわからない」とか聞くじゃないですか、たまに。
そもそもがね、あれが全然わからないタイプなんですよ、わたし。
ガキの頃からそれなりに背筋を伸ばしてメシを食う場に慣れてる上に、口が卑しいからたとえ接待の席であっても「味わう」優先のスイッチが入ってます。それに程よい緊張はスパイスですもの。

とはいえ。
やっぱり、その場で求められている役割をできるだけ真摯に務めようとはしてますね。
最近は「楽しく話す空気を作ってくださる方の話題をひろって広げて座に戻す」って役割に定着しつつあるような気もしますけど、昔から大宴会の席なんかだと座持ちは誰かに任せて裏で目配りするのが楽しいです。
もしわたしが、こういうことが自然にやれてるように見えるようになってたら「そこそこオトナになった」って思ってもいいのかなあと思います。


みっつめはキングコング西野さんのオンラインサロン界隈の方々はピンとくる奴。
昭和的な「ごちそう」意識はあぶないよねってハナシ。

ざっくりいうとごちそうしようと思うとなんか作りすぎちゃうんですよね。

食べるものがなかった時代には「おなか一杯に食べてもらうこと=ごちそうすること」でした。でも飽食の時代になって相手を「おなか一杯にすること」は必ずしもプラスに捉えられるとは限らないですよね。
けっこうみんなダイエットしてるしね、とかそういうことではなくて「おいしいものを食べてもらうこと」だって同じ。「食べたいときに食べたいものを食べる」ことが当たり前になった時代に、「あなたにこれを食べてもらいたい」気持ちをどう伝えるか、どうやったら喜んでもらえるか、きちんと考えないとコミュニケーションエラーを引き起こしかねないよなあ…という。

そもそも「ごちそう」って漢字だと「御馳走」なのですよね、相手のことを思って心づくしの支度をするために走り回ること。だから独りよがりのごちそうは御馳走ではないってことは今に始まった話ではなくて昔っからその通り。
ここ結構できてないので気を付けないとなあ。

さて今夜はここまで。「食べることとわたし(仮)」たぶん続きます。
では。

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