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食べることとわたし(仮)その1

さて、そんなわけで語り始めます。タイトルは仮に「食べることとわたし」とでもしましょうか。


まずは、わが父親への微妙にねじくれた感謝から始めたいと思います。
30歳手前まで続く長い学生時代、毎日を4人の兄弟とともに母親(私から見ると祖母)の作る食事(昼も弁当だったらしい)で過ごしていたウチの父は食にほぼ興味がなかったのだといいます。というか、弁当はいつも同じようなおかず、夕食といえば腰のない煮込みうどんばかりで「ごはんが美味い」という感覚がとても薄く「食事なんてハラがふくれればよい」のだと思っていたと父は言っていました。

小学生のときに満州で終戦を迎えた父の世代のそれは、戦後の食糧難ということもあったのかもしれないけれど、正直に言ってこの祖母の料理というものが随分な代物で。盆暮れに父の実家に顔を出すと食べることになる祖母が作る壮絶な品々を、子供ながらも不味いとは言えずあちらでは長いコト「食の細い子」だと思われていたんですよね、わたし。

これはのちに伝え聞いたことだけど「銀座に開店したマクドナルド1号店に真っ先に並んだ」くらいにはアプレ気質で洋食好きの大正モダンボーイだった父方の祖父は、結婚後昼夜ほぼ外食生活だったらしい。さもありなん、てゆかずるいぞおじーちゃん。
ちなみに外房の網元のいえの末娘として生まれた母は、戦時であっても日々捕れたての魚や新鮮な野菜を歳のはなれた気のいい兄弟姉妹や使用人たちと大勢で食べ、季節が廻れば裏山で鳥獣を捕って鍋にするような幼少期を過ごしたのち、学生時代は高校生からほぼ自炊生活だったといいますので「食事」や「食」に対する感覚はだいぶ父とは違っていたのだと思いますね。

でまあ。
母と結婚した父はおそらく人生で初めて、まっとうな料理が数品並ぶ夕食というものを体験しました。さらには自宅で洋食、しかもタンシチューとかポトフとかグリルドチキンとか、あとフルーツケーキとかが(手作りで)出るにいたって「美味しいごはんのある毎日」の幸せを全力で感じたのだそうです。
そして自身の幼少期をふりかえりながら、父は「それが不幸だと思ったわけではないけれど」と前置きしつつ「子供には幼いうちからちゃんとしたものをちゃんと食わせて育てよう」と決意したのだといいます。おとーさん、まじかー。

そして…生まれた子供は、0歳で粉ミルクのえり好みをし(それをまた父親が遠くまで買いに行き)、5歳にして蕎麦屋で箸を握りしめて「ざるそばがおおきく手繰れないよう」と号泣し、7歳でお友達の誕生会で出されたバタークリームのショートケーキを一口食べてあとは手を付けず先方のお母さまを心配させ、8歳で焼肉屋ではカルビやロースには目もくれずタン塩とレバーとテッチャンを注文し(これは父親が開高健の大ファンだったせいもある)、10歳にして寿司屋のカウンターで最初から「雲丹!」と叫んで父親と懇意の大将から「あのな?寿司には食う順番てものがあるんだ」と丁寧に叱られ、11歳で「鰻は蒲焼より白焼きを生姜醤油で」とほざき、13歳の誕生日には「プレゼントはいらないので教会のそばにある(当時浜松市ではほぼ唯一だった)本格フランス料理店でコース料理が食べてみたいです」と言い放つクソガキになりました。…並べるとほんとうにクソガキだな、ワタシ。

ちなみに高度成長期が終わった後、バブルが始まる前のころの地方都市にほどちかい田舎の漁師町でのおはなしです。くりかえすけどほんとうにクソガキだな、ワタシ。

えー、ともあれこの食についての無限の甘やかしと、それを得るための礼儀作法面での厳しい躾というものが、今の私を形成するひとつのベースになっているのは確かでしょうね。

いっぽうで。

小学4年生のとき、母が膵臓を患います。癌ではないとの診断に安堵しつつ、ひと月半の入院から母が帰ってきて、我が家の食生活は大きく変化をはじめました。
それは「美味なだけではなく、より健康な食生活」の模索の始まりでした。

退院してから1年の間。
母は食餌療法として「脂と油」がNGになりました。消化液が出にくくて消化不良の症状がおこりやすいため肉や魚は減らされ、塩や砂糖の量も制限され極端に薄味になりました。インスリンも出なくなっているので糖質制限も並行します。最初の数ヶ月はほぼ毎食、茹でた野菜と鶏のささみにうっすらと味をつけて少量のご飯といっしょに食べている、そんな感じでした。

でもそんな中で、母は父と私にはこれまで通りの洋風な食事を作っていました。
バターを使い、クリームを使い、香辛料を使い。
油で揚げ、ソースを絡め、しっかりとドレッシングし。

だから。ある日、父と母に言ったんですよ。
毎日の食事は、お母さんの食べられるものを優先しませんか?って。
3人で食事をしていて、ひとりだけが「ものすごく違うもの」を食べているのはとても悲しい気持ちになるから。なんだか食べたくなくなっちゃうから。そりゃある程度量を増やしてもらいたいし食べるならおいしい方がいいけど(ここら辺が子供の甘え)。
それにね。実際のところ「そーゆー食生活だった」から膵臓を悪くしたってのも確かでしょう?

そう、小学5年生のわたしは言ったのでした。

わかるひとにはわかるハナシなのかもしれないけど、自分の体調がよくないときに自分が食べられないものを調理するのってかなり大変だったと思います。実際、母がそう口にしていたこともあります。
それでも母がこれまでの「おいしい料理」を作り続けていたのって、実のところ「ほかのものが作れなかった」って要素が大きかったんじゃないかと思います。

洋風の、味付けのしっかりした、わりと大きいメインディッシュに付け合わせのついた大皿が出る、そういう料理が我が家の定番で、父も私もそれを指して「おかあさんのつくるごはんは美味しいねえ」って言っていたのですから。


そこから数年。我が家の食卓は割と試行錯誤な日々だったように思います。
や、もちろん試行錯誤していたのは結局のところ母ですが。

和食ベースのもうちょっとひねった手軽に満足感の出せる料理。
しっかり出汁を取った油少な目なメインディッシュ。焼き魚の塩加減、煮魚の出汁加減。フレンチではない(ノンオイルな)フレッシュサラダの工夫。年間定番ではない旬の野菜の選択とその使い方。

現在、自分が作る料理の様々なベースはこの時の母の工夫、そしてその手元を見て、舌で味わっていた自分の記憶にあるのでしょう。

そのうちに面白くなりだしたらしく母は、某アイデア料理コンテスト的なものへ出品したり(レシピ書きや写真は私がお手伝いしました)、回りの人たちを集めて「食事を考える会」を発足したり(…結果、この会の代表としてその後「食いしん坊バンザイ」に出演したり…します。なんだそれ、まあいいけどね元気になってくれたなら)。

そのころの私はといえば。
それなりに回復を見せた母と時にはしっかり味な外食がしたい父と一緒に、茹で上げスパゲティはやっぱりアルデンテですよねだの、本格インドカレーはまたちがうねえ、今度香辛料揃えてタンドリーチキンうちで作ってみようかだのと地方都市最新グルメを味わいながら、畑で季節ごとの野菜を育て、当日水揚げされる魚介の鮮度に舌を慣らし、目の前の海で貝を掘り、カニを捕り、釣った魚を不器用ながら捌き、近所のおじさんと裏山で鶏を絞めたりもする半農半漁な田舎暮らしならではの経験もしつつ高校を卒業。そして大学での一人暮らしになって…。

まあ、ここからはまた今度にしましょうかね。さすがにちょっと書きすぎました。では。

(つづきはこちら↓)

https://note.com/manet26/n/nb7be4db24efc/edit

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