独断的聖書解説:復活祭「推しの墓に泣きに行く。」
さあ、復活祭!イースターですよー。
通常は春分の日のあとの最初の満月に最も近い日曜日。
日本ではキリスト教最大のイベントはクリスマスだと思われているようですが、本当はこちらが最大のイベントですからね?
復活の主日のミサの福音朗読はヨハネ福音書20章1-9節がまあ定番ちゃ定番なんですが「キリストが復活して墓からいなくなっている」エピソードは4つの福音書それぞれにありまして各年の復活徹夜祭の福音(マタイ28章1-10節、マルコ16章1-7節、ルカ24章1-12節)を主日に朗読してもいいことになってます。
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一週の初の日、朝まだき、女たち備へたる香料を携へて墓にゆく。
然るに石の既に墓より轉し除けあるを見、内に入りたるに、主イエスの屍體を見ず、
これが爲に狼狽へをりしに、視よ、輝ける衣を著たる二人の人その傍らに立てり。
女たち懼れて面を地に伏せたれば、その二人の者いふ
なんぞ死にし者どもの中に生ける者を尋ぬるか。彼は此處に在さず、甦へり給へり。尚ガリラヤに居給へるとき、如何に語り給ひしかを憶ひ出でよ。
即ち、「人の子は必ず罪ある人の手に付され、十字架につけられ、かつ三日めに甦へるべし」と言ひ給へり。
ここに彼らその御言を憶ひ出で、墓より帰りて、凡て此等のことを十一弟子および凡ての弟子たちに告ぐ。
この女たちはマグダラのマリヤ、ヨハンナ及びヤコブの母マリヤなり。而して彼らと共に在りし他の女たちも、之を使徒たちに告げたり。
使徒たちは其の言を妄語と思ひて信ぜず。
ペテロは起ちて墓に走りゆき、屈みて布のみあるを見、ありし事を怪しみつつ帰れり。
(ルカ傳福音書 24章1節~12節)
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各書共通の形式として「第一発見者は女性達」ってのがあります。
上でもそうですが「遺体に塗る香料を持って墓に向かってみたら、墓の蓋の大きな石が転がされていてイエスの遺体が中にない!」
ここでおかしいのは「自分達で墓の蓋を転がせそうもない」女性達が「遺体に塗る香料を持って」いくという行動。
おそらくこの女性たちは「あっさり死んじゃったイエスの前でもうちょっとめそめそしてたかった」コアなファンなんじゃないかなと思うのです。
でもまあ「罪人」ですから、だれかに見咎められた時に「腐っちゃうと臭いかなーって遺体に塗る香料もってきたんですけどお墓に入れなくてー」って言い訳を用意してたのかな、と。
出待ちしてるファンが「待ってる理由として受け取ってもらえるからないけど差し入れ持ってく」のと同じ心理…違うかな。
そういえばだいぶ昔のことになりますが、X JAPANのhideがお亡くなりになった際、黒ゴスに身を包んだ女性たちが数百人、葬儀が行われた築地本願寺の周囲の歩道をくるっと取り囲んですすり泣いていた光景を見たことがあります。あれはすごい光景だったなあ(じつのところお届け物の途中だったのでものすごく邪魔だったんですけどね)。
ちなみにこのとき男性陣はエルサレム市内の一軒の家にあつまって「ヤベー、どーするよ」っつってコソコソしてました…12使徒含めて。
ここら辺、権利も義務も男性にしかない時代だからこそのことなのか、いまも昔も女性の方が図太いのか。
ま、ともかく。
各福音書の復活描写はそれぞれちょっとづつエピソードが違っています。
ルカの描写は、実は一番客観性が高めなんですね。しかも最後のペトロ云々のとこは後世の追記なんじゃないかと言われています。そうするとほんとにシンプル。
マタイは「婦人達が帰り道でさっそくイエス自身に逢っちゃう」っていうサプライズ付き。
マルコだと逆に「動転した婦人達はこのことを弟子達に告げなかった」ので、弟子達はイエスがお姿を現すまでそのことを知らなかったっていうちょい言い訳がましい書き方。
ヨハネに至ってはいつものとおりドラマティックにペトロとマリア・マグダレナとトマのめっちゃ盛ったエピソードを書いてます。
この違いを、福音記者の個性や成立の背景みたいなところと照らし合わせるとすごく面白いのですが、説明すると長くなるので今回はパス。
ということで、今日もハッピーイースター♪
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