見出し画像

49 漆黒の汁にぷかりと浮かぶゲソ天

 立ち食いそばの具では何がいちばん好きかという話をしたい。
 ぼくがこれまでにもっともたくさんの杯数を食べてきたのは、数えたことがないので断言はできないが、おそらく「たぬきそば」だろう。断言するほどの話じゃない。
 ちなみに、関東と関西では「たぬき」と「きつね」の概念が異なるというのはよく知られた話だ。そして同じ関西でも、大阪と京都ではまた違ったりするのでややこしい。それをここで解説し始めると本題から離れてどんどん話がのびるし(そばだけに)、日本各地の立ち食いそばには、それぞれご当地なりの具があるはず。立ち食いそば研究家でもないぼくが、それらを把握しているはずもなく、今回はあくまでも、ぼくが関東で食べている立ち食いそば(の具)に限った話だと、ご承知おきください。いや、いつもそうか。

 たぬきそばに話を戻す。
 関東で「たぬき」と言えば、そばだろうと、うどんだろうと、その具は天かすと決まっている。注文すると、店員さんが麺を茹で、湯を切ってドンブリにあけ、関東特有の真っ黒で熱々の汁をかけ、その上に天かすをドサっと浮かべ、刻んだネギを添える。これがうまい。天かすも最初はしゃりしゃり、やがて汁でふやけてびたびたになっていく。それがまたいい。
 若い頃は、立ち食いそばに行くと迷わず「天ぷら(かき揚げ)そば」を頼んだものだが、ただでさえ少食のぼくは、齢をとっていっそう食が細くなった。よほど腹ペコでないかぎり、天ぷらそばは重くて食べきれない。立ち食いそば屋の天ぷらは、天ぷらとは名ばかりで、実体はほとんど小麦粉の塊だ。それが汁を吸って膨れ上がり、老人の弱った胃に重くのしかかる。
 だったら素のかけそばにすればいいかというと、そうもいかない。かけそばだとこんどは物足りない。何か少しくらいは脂っ気が欲しくて、そんなときに丁度いいのがたぬきそばなのだ。

 かき揚げは滅多に注文しなくなったと言いながら、案外選ぶことが多いのは「イカ天」と「ちくわ天」だ。どちらも原料が魚介類という安心感。老人は魚さえ食ってりゃ安心するのである。
 うちの地元の駅前の店には「小柱のかき揚げ」がある。イカ天やちくわ天でも重く感じるとき、ぼくのささやかな食欲を小柱が支えてくれる。小さくとも頼もしい、立ち食いそば屋の陰の大黒柱。
 立ち食いそばファンの間で意外に人気があるのが「コロッケ」だが、ぼくは滅多に食べない。立ち食いそば屋のコロッケはなぜかカレー味になっていることが多く、せっかくの醤油味のキリリとしたつゆにカレーの風味が混ざる(江戸に印度の風が吹く)のが、ぼくはあんまり好きになれないのだ。それに、食べかけたコロッケの芋がぐずぐずと溶け出し、つゆが濁っていくのも嫌だ。醤油も、そばも、コロッケも、カレーも、コロッケそばを構成する要素は全部好きなのに、それが混ざると拒否反応が出る。難しいもんだね。

 さて、関東の立ち食いそば界でひそかに主役の座に君臨している具がある。それがこのエッセイのタイトルにもある「ゲソ天」だ。
 天ぷら的にはボディを使用したイカ天のほうが上等に思われそうだが、客の人気は足回りを揚げたゲソ天の方が上回る。実際、食べてみると、イカ天にはない歯応え、吸盤部分のイボイボした食感、漂う香ばしさは王者の風格だ。ゲソ天の「天」は大黒天、毘沙門天、弁財天なんかの「天」と同じ「天」だと言ってもいい。
 ゲソ天は、関東のどこの店にもあるというわけではない。有名チェーンの立ち食いそば屋には、まずない。その一方で、漆黒の東京汁がウリの店には、たいていゲソ天がある。
 その代表格が「六文そば」だ。
 全盛期には都内に20店舗以上もあった六文そばだが、2022年の時点では6店舗しか残っていないそうだ。ぼくはマニタ書房時代、出勤前に新御茶ノ水から須田町の六文そばに寄って、昼めしにイカ天そばを食べてから店を開けることがよくあった。廃業したいまでも、神保町に用事があるときはたまに足を向ける懐かしい味だ。
 ぼくにとって、ゲソ天もかなり「重い」部類に入るのだが、今日は腹の具合もいいし、久しぶりに天ぷらそばでも……と思ったときには、ちょっとハンドルを切ってゲソ天のある店に向かう。六文そばグループ、日暮里の「一由そば」、青砥の「三松」、我が地元馬橋の「兎屋」。ゲソ天を出す店は、どうしたわけかことごとく汁が濃い。これはイカ墨を模しているのではないかと、汁を啜りながら夢想する。

 物書きとして、極端なことを書いた方が読者にウケやすいのはわかる。ぼくの文章にもそういった表現は随所に見られると思う。でも、好きなものを持ち上げるために、嫌いなものを下げるのはよくないということもよくわかっている。そばの具を政争の具にしてはいけない。

気が向いたらサポートをお願いします。あなたのサポートで酎ハイがうまい。