68 ぎょうざのギャザー
町中華に入って、瓶ビールを頼んだらとりあえず餃子を頼む。それは条件反射みたいなもので、好き嫌いを超越した行為だ。
しかし、ハタと考える。ぼくは餃子が「好き」なんだろうか?
考えたこともなかった。べつに嫌いではない。では好きなのかと問われても、即答はできない自分がいることに気づく。ひき肉、キャベツもしくは白菜、ニラ、ニンニク、小麦粉を練って作られた皮。どれも好きな材料ばかりだ。ゴマ油、熱々の鉄板、焦げ目、ひだひだ部分の歯応え。どれも好物だ。
ぼくは餃子が食べたくなると、家から最寄りの「餃子の王将」新松戸店に行って、餃子をおかずにライスをわしわし食べたりするが、それはただ単に「餃子を食べたい瞬間」が自分の中に降りて来ただけのことで、餃子が好きな人の行動ということにはならない。
町中華でも、条件反射的に餃子を頼むわけだが、春巻きがあればそっちにすることもあるし、肉野菜炒めにすることもある。皮蛋豆腐があるなら問答無用でそれを頼む。餃子が好きな人というのは、他のつまみには目もくれず、何をおいてもまずは餃子を頼む人のことだ。
町中華において、餃子は「値段の安さ」も大きなアドバンテージとなっている。
餃子と春巻きを比較したとき、それぞれにかかる材料費も作るための手間暇も、そう大差はないはずだ。にもかかわらず、春巻きに比べて餃子はグッと安い。
試しに地元の町中華「千成亭」のメニューを見ると、春巻きが759円(税込)なのに対して、餃子は495円(税込)だ。マグマ舌的には火傷する確率の高い春巻きを頼みたいところだが、300円近い価格の差は捨てがたく、つい安い方の餃子を頼んでしまう。繰り返しになるが、この行為はぼくが「積極的に餃子を選んだ」というよりは「価格の安さに負けた」だけのことだ。だから、ぼくは自分を餃子好きだとはやはり思えないのである。
餃子を軸に据えたチェーン店といえば、先の餃子の王将(以下、王将)に次ぐ勢力として「ぎょうざの満洲(以下、満洲)」が挙げられる。が、ぼくが利用するのは圧倒的に王将の方である。しかし、その利用頻度の差は単純に地勢的なものでしかない。
王将は京都からスタートし、東北部を除いて北海道から熊本まで、ほぼ日本全域に支店網を巡らせている。我が家から最寄りの新松戸店までは徒歩で25分ほどかかるが、それでも徒歩圏内にあるだけありがたい。
一方、満洲は埼玉の所沢を発祥とし、埼玉の東部と東京の北西部、そして関西圏を中心に展開している。我が家から最寄りの満洲はエキア谷塚駅店だが、徒歩では到底行けない位置だし、電車で行くにしてもいったん北千住まで出て、東武伊勢崎線に乗らなければならない。所要時間48分。その間、餃子欲なんぞ簡単に冷めてしまうし、そもそも選択肢にのぼらない。つまり、王将は常にぼくの視界にあるけれど、満洲はよほど意識しなければ「見えない」のだ。
飲み屋としてのポテンシャルは王将よりも満州の方が秀でていると思うので、もっと頻繁に利用したいというのが本音なのだが、行動半径にないんだからしょうがない。満州国のように傀儡……とは言わないが、ぎょうざの満洲は千葉県民には幻影のような店である。
ウチの母はやたらと餃子を作りたがる。だが、これもまた実に困った問題である。
なぜなら、母の餃子はほとんど味がしないからだ。おそらく、タネを作る際の味付けが弱いのだと思う。塩が足らないのか、胡椒が足らないのか、あるいはそれ以外の隠し味に欠けているのか。もっと言えば、年老いて母の味覚自体が失われてしまっているのか……。
しかし、ウチの母の味がどうこうという以前に、餃子の最大の問題点がそこにあることもわかる。
餃子という料理は、仕込み中も、調理中も、味見をすることが不可能だからだ。餃子は焼き上がってからでないと味見ができない。タネを仕込んでいる段階で味見ができるなら間違いないのだが、そんなことは無理な相談だ。
だからいったん作って、その味を基準にして次回の味付けの加減を調整してゆくしかないのだが、5分前のことをどんどん忘れるようになってしまったいまの母に、それを望むのは酷な話というもの。
現在は冷凍ぎょうざの無人販売所が増えている。うちの近所だけでも2軒はある。スーパーで売ってる冷凍餃子も昔に比べてずいぶん味が良くなった。だから家で餃子を自作する意味など、もうありはしない。オフクロ、餃子作るのやめてくんねえかなあ。
餃子といったら、なんといってもあの焦げ目を重視する人は多い。焼きが足りなくてはダメ。焼きすぎて焦がしてもダメ。鉄板に接したところが満遍なく茶色になった、ちょうどいい焼け具合。そのカリカリ感こそが餃子の命なのだと。
ぼくにもそんなことを思っていた時代がありました。若かったねえ。まだ何も知らなかった。自分を餃子に例えれば、ほとんど焦げ目がついていない状態だった。
でも、いまは違う。餃子の本当の味わいは焦げではなくて、その反対側。あのヒダヒダ部分にあるのだということを知ってしまったから。
水蒸気で十分蒸されているので火は通っているけれど、鉄板に触れているわけではないから焦げ目はない。そのため、口にしたときにカリカリ感は得られないが、かわりに餃子の皮のクニュクニュした味わいはヒダのおかげで倍増する。まさに「餃子はヒダヒダを食べるもの」ということを実感する瞬間だ。
以前、何かのグルメ番組で餃子屋を紹介するときのBGMがビートルズの『カム・トゥゲザー』で、げらげら笑ったことがある。最初は「♪カム・トゥゲザー(together)」の「ゲェザー」とシャウトする部分が「ギョーザ」の駄洒落だ思って笑っていたが、やがて餃子のヒダヒダ(gathers)とかかってるのではないかと気づいて戦慄した。そんな大袈裟なことか!