見出し画像

33 涙の味がするサワー

 これまでに一度だけ、飲酒運転をしたことがある。

 あれは、2011年のことだ。難病を抱えながらも薬で病気の進行を抑え、なんとか日常生活を送っていた妻が、夏の終わり頃から体調を崩し始めた。体内に水が溜まり、足が浮腫(むく)んで歩行が困難になり、横になって休んでいることが多くなった。やがて、浮腫は首の方にも広がり始め、これは危険だということで、主治医から入院を勧められた。
 病室のベッドに横たわり、カテーテルで水を抜く。けれど、それだけでは追いつかない。次第に意識が混濁し、見舞いに行って声をかけても、あまり会話が成立しなくなっていった。
 ベッドで眠るでもなく、ぼんやりしている妻を見ているうちに、もう長くはないことを思い、自然と涙がこぼれ出た。
 泣いている夫の姿を見たら、自分の死期が近いことに気づいてしまうかもしれない。そう思ってあわてて顔を背けたのだが、見られてしまったようだ。
 妻は言った。
「とみちゃん、どうして泣いてるの?」
 驚いたわけでもなく、ショックを受けるのでもなく、純粋に夫が泣いてることの意味がわからないというような口調だった。
 10月26日も病院へ行き、着替えなどを交換する。妻はずっと寝ていた。寝ていたというよりも、昏睡状態だったのかもしれない。
 夕方、義妹と妻の親友が来てくれたので、交代して僕は家に帰った。
 あと何回会えるだろうか。娘はまだ小学5年生だ。病気が発覚したとき、主治医からは「お嬢さんが小学校に上がるまでは生きられないかもしれない」と言われていた。それより5年も長生きしてくれたのだから、良かったというべきだろうか。
 飲まなきゃ、やっていられない。そ日の晩も、いつものように酎ハイを2缶ほど飲んで寝た。
 それからしばらくして、義妹からの電話で起こされた。妻が危篤だと言う。
 熱いお茶を一杯だけ飲んで心を落ち着かせてから、母と娘を起こした。二人をクルマに乗せて、病院まで急いだ。途中で、自分が寝る前に酒を飲んでいたことを思い出したが、もう遅い。タクシーを呼ぶことも思いつかなかった。
 これで事故でも起こしたら洒落にならないので、慎重な運転を心がけた。
 ぼくらが病院に着いたときには、妻はもう旅立ったあとだった。
 これを機にぼくはお酒を飲むことを一切やめた、と言えればかっこいいのだけど、ご存知のようにそんなことはない。妻の死後、永らく「飲まなきゃやってられない日々」が続く。

 家族の葬儀を経験した人ならわかると思うが、いざ人が死ぬと、途端に忙しくなる。病院や警察とのやりとり、役所関係の手続き、葬儀屋の手配、銀行やカードの停止措置、親戚友人たちへの連絡……といった「やることリスト」が山積みになり、悲しんでいる暇はなくなる。
 それらのタスクをひとつずつ片付けながらも、合間合間にぼくは酒を飲み、悲しみを紛らわせていた。
 ようやく気持ちが落ち着いたのは、すべての準備が整った通夜の日だった。
 通夜にはたくさんの友達が来てくれた。
 ひとしきり通夜の儀式が終わり、友人たちは「近所でもう少し飲んで帰る」と言っていた。
 ぼくは、親戚の叔母らと葬儀場に泊まり、明日の告別式に備えるつもりだったが、みんなが去ったあとの寂寥感に耐えきれなかった。我慢できずモギさんに電話をかけ、どこで飲んでいるのかを教えてもらうと、葬儀場の近所にある沖縄料理屋に駆け込んで、みんなと合流した。
 みんなに囲まれてシークワーサーサワーを飲みながら、ぼくはまたポロポロと泣いた。
「とみちゃん、どうして泣いてるの?」
 妻から聞いた最後の言葉が、耳の中でこだました。

※画像は、娘が5年生のとき千葉県の絵画展に出した運動靴の絵。妻が亡くなった翌日、弔問に訪れた担任の先生が、入選したことを教えてくれた。

気が向いたらサポートをお願いします。あなたのサポートで酎ハイがうまい。