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34 運転疲れが酒をうまくする

 中学時代に荘司としおの『サイクル野郎』にハマり、いつかは自分も丸井輪太郎のように日本一周をしてみたいと願っていた自転車少年のぼくにとって、道路を我が物顔で走り回る自動車は天敵だった。親父はトラック運転手だったけど、自分はクルマの運転などしたくない。
 ずっとそう思って生きてきたけれど、23歳のときに何の気の迷いか運転免許を取得した。当時はまだAT車(オートマ)なんて一般的ではなかったので、当然のようにMT(マニュアル)免許だ。
 教習所に通っている間は、本当に嫌で嫌で仕方がなかった。いまと違って、あの頃は教習所の教官も態度が横柄で、運転の下手な人間には非常に冷たく当たる。その感じは、舘ひろし主演の映画『免許がない!』でも誇張して描かれている。
 とにかくクラッチの操作が苦手だった。坂道発進はもちろんのこと、通常の加速減速でシフトアップ・ダウンさせるごとにクラッチを踏まなければならない。そのタイミングを図るのが本当に苦手だった。
 ぼくが通っていた金町自動車教習所はイトーヨーカドーの屋上にあるという狂った立地で、狭い敷地内に複雑なコースが入り組んでいる初心者泣かせの教習所だ。さらに路上教習に出てみれば、江戸川と中川というふたつの河川に挟まれ、京成金町線の線路はあり、通行量の多い国道6号線もある。そのうえ葛飾区という荒っぽい運転をする人たちが多い土地柄だ。仮免の人間がクルマを走らすにはかなりハードルの高い場所なのだ。
 それでも11時間オーバーの教習を経てなんとか卒業することができ、本試験も通過して免許を取得することができた。免許を取得したと言っても、ただ単に身分証として運転免許を持っていたほうがいいか、くらいの気持ちだったので、日常的に運転をするつもりはなかった。
 ただ、家には親父のスカイラインC110型(通称:ケンメリ)があったので、一度だけ乗ってみた。両親と姉を乗せて、松戸の家から両国のおじさんの家まで行ってみよう。レッツゴー。
 まあ下手くそですね。信号のたびにエンストする。ウインカー操作に気を取られて車線変更をしくじる。車間距離を見誤って追突しそうになる。
「ダメだ、ダメだ! 危なっかしくって乗っちゃいらんねえ!」
 親父からダメ出しをくらい、まだ千葉県も出ないうちに運転を交代させられた。まあ家族の命を考えたらそうなるのは当然だが、それをきっかけにぼくは完全にクルマの運転という行為から心が離れた。以後は一切運転をしなくなる。3年後に免許の更新がくるのだけど、「もういいや」という気分だったぼくはそれを無視して、そのまま失効する。

 再び免許を取ってみる気になったのは、2000年に娘が生まれたことがきっかけだ。妻がクルマ好きな人間なので運転はすべて任せていたが、さすがに子供をもったら自分も運転できたほうがいい。それに、いまはAT車のみの免許もある。あの忌まわしいクラッチがなく、アクセルを踏むだけで加速も原則も思いのまま。これなら運転音痴のぼくでも乗りこなせるだろう。
 当時は昭島市に住んでいたので、通うとすれば拝島自動車教習所だ。
 地図で見ていただくとわかると思うんですがね、拝島自動車教習所は横田基地に隣接している。金町と違って土地には余裕があるところなので、まあコースも広いし、周辺道路も広々としてる。路上教習なんて高尾山へ行ったりするんですよ。楽しいったらありゃしない。
 自動車教習所へ入所するのは圧倒的に若い人が多い。でもぼくは当時40歳にならんとしているところだった。そんな歳で教習所へ来て、新規に免許を取るはずなのに、けっこう運転技術の飲み込みが早い。だってこっちは一度はマニュアルで免許を取った経験があるからね、それに比べればオートマなんて『アウトラン』やってるみたいなものだ。教官が訝しがって言う。
「とみさわさん、運転は初めてではないんですか?」
 ここで、これまでの経過を話すのもめんどくさい。だからシンプルに答えた。
「若い頃にマニュアルで取ったんですけどね、ちょっといろいろありまして、また取り直そうと思ったんです……」
 ああ、この人は過去に人身事故を起こして免許を失った。でも、改めて免許を取り直して人生をやり直そうとしているのだ。多分、教官は勝手にストーリーを読み取ってくれたのだろう。以後、この教官の教習態度がめちゃめちゃ優しくなった。世の中、黙っておいたほうがいいこともある。

 あ、これは酒エッセイだった。ちょっと軌道修正。

 2度目の免許を取得しても、やっぱり普段は妻に運転を任せて、自分はあんまり運転することはなかった。ところが、妻が亡くなったことで、いきなりぼくが運転をしなければいけない機会が増えた。
 最初にそれに直面したのは、危篤の妻に会いに駆けつけた、あの夜が明けた翌朝だった。
 妻の遺体を救急車に乗せ、松戸の自宅まで搬送する。救急車には母と娘が同乗するが、ぼくはマイカーで帰らねばならない。
 普段なら走りやすい京葉道路と国道6号線を使えばいいのだが、病院側から「では、ご主人は救急車についてきてください」と言われ、嫌な予感がするなあと思ったら、案の定、首都高に乗られた。
 オートマで楽々運転とはいえ、この時点での自分はまだペーパードライバーに毛が生えた程度のものだ。首都高を走行するのはマジで怖い。先行する救急車を見失わないよう必死でハンドルを握って家まで帰った。

 それから怒涛の日々が過ぎ、あれやこれやがあっての翌年、ぼくは古本屋を開業することになる。
 開業の準備を始めたとき、運転できることの真価に気がついた。古本の仕入れをするために、日本全国を走り回り、そのおかげで運転にはどんどん慣れていった。
 酒飲みがクルマに乗るようになると、やはり心配なのは飲酒運転だ。あの日の晩、うっかり前夜に飲んでいたことを忘れるという失態はあったが、基本的にぼくは酒と運転はきっちり分けて考えている。親父が職業ドライバーだったことも影響しているだろう。
 むしろ、日中は運転すること自体を楽しみ、地方の古本屋を巡って仕入れをし、夕刻になって宿に着いたらクルマを降り、夜の街に繰り出して土地の酒と肴を味わう。そういう酒の飲み方ができるようになったのは運転免許のおかげだ。この楽しみを失わないためにも、飲酒運転なんてするわけにはいかない。
 実を言うと、仕事が減ってきてクルマを維持するのが経済的に厳しいので、来週とうとうクルマを手放すことになっている。23年間マイカーでのドライブを楽しんできたけど、それも退け時だ。ただ、運転技術(旅先での酒)を忘れないために、たまにはレンタカーでも借りてみようと思う。

※写真は新千歳空港内にある野外ジンギスカン。レンタカーを返却し、空港内の温泉で汗を流し、ジンギスカンで生ビールを飲りながら搭乗開始を待つ。最高の旅だった。

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