58 私の愛さなかったスッパイ
いよいよコイツの話をするときがやってきた。まだ夏が終わらぬうちに語っておかなければならないアイツのこと。年に数えるほどしか食べないソイツのことを、ぼくはココに書かねばならない。
指示代名詞の多いふわふわした文章をこれ以上続けるわけにもいかないので、はっきり書こう。コイツ、アイツ、ソイツとは「冷やし中華」のことである。
ご存知のように冷やし中華の二大特徴といえば「冷たい」と「酸っぱい」だ。これはどちらもぼくが忌み嫌ってきたもので、まったく食欲をそそらない。自分から進んで食べたいと思うようなことは、まずない。
ところが、そんなぼくでも平均すると年に5~6回は冷やし中華を食べている。
自分では食べたいと思わないのになぜ食べているかといえば、そりゃあ家族の付き合いで仕方なく食べているのだ。いま、これを読んだ娘がショックを受けているかもしれない。「おとうさん、冷やし中華を嫌々食べていたのか……」と。
現在の我が家は母と娘とぼくの3人家族である。したがって、常に食事の支度をするときは、3人分を一緒に作ることになる。ところが、皆さんも最寄りのスーパーマーケットに行ってもらえばわかるが、世の中の大半の食材というのは2人前、もしくは4人前、つまり偶数で割れる数で構成されていることが多い。したがって、3人家族の場合は何を買っても常に食材が中途半端なかたちで余ってしまう。これはとても非効率だ。
ところが、うちの地元のスーパーで売ってる冷やし中華(マルちゃんの冷し生ラーメン 特製ふりかけ付)は3人前がセットになっていて、我が家的にはとても都合がいいんですな。
余談だけど、袋入りの生ラーメンは2食入りが多いのに、冷やし中華はどこのメーカーも3食入りが多いような気がする。まあ余談なので忘れてもらってかまわない。
ともかくそれを買って帰り、麺を茹でて氷水で締め、あとはキュウリとハムと薄焼き玉子を千切りにして、気が向けばトマトなんかも乗せてしまえば出来上がり。たいした手間もかからず、ひと皿で炭水化物とタンパク質とビタミンを程よく摂取できる料理が作れるのは、実にありがたいことだ。
冷たかろうと、酸っぱかろうと、50 代になってから炊事を始めたような人間の負担を軽くしてくれる食品には感謝しかない。だから味なんて二の次だ(もちろん、マルちゃんの冷し生ラーメンがおいしくないという意味ではない)。
家庭内における冷やし中華事情は上記の通り。では、外食での冷やし中華はどうか?
どうかも何も、ぼくが外で冷やし中華を食べることは 99.999 パーセントないね。若い頃に赤塚不二夫、山下洋輔、タモリ、高平哲郎らの“面白グループ”に憧れていたから、彼らが突如として全冷中(全国冷し中華愛好会)を立ち上げたときには、少なからず心が動いた。でも、いくら自問自答してもぼくの心の中には彼らのように冷やし中華を愛する理由が見つからなかったので、スルーせざるを得なかった。冷やし中華のように甘酸っぱい……わけではなく、ただの苦い思い出である。
冷やし中華というメニューは、神保町すずらん通りにある揚子江菜館の初代店主・周子儀が考案したものだと言われている。揚子江菜館へは、マニタ書房をやっていた頃によく昼めしを食べに行っていた。ここの名物料理はもちろん元祖冷やし中華の「五色涼拌麺」なのだが、ぼくがそれをチョイスするはずはない。
では、生前の池波正太郎がこよなく愛したという「上海式肉焼きそば」かと言えば、それもまた違う。ぼくは必ず注文していたのは「海鮮麻辣湯麺」だ。鶏ガラと思われるスープをベースにして、唐辛子や山椒系のスパイスを効かせたピリ辛ラーメンである。具はイカとエビ、あとフクロタケが入っていたように思う。
考えてみれば、ぼくは神保町で麺類を食べるときは、この揚子江菜館の「海鮮麻辣湯麺」か、新世界菜館の「挽肉唐辛子そば」か、馬子禄の「蘭州牛肉麺」ばかり選んでいた。どれもピリ辛スープ特徴的なメニューだ。あちこち食べ歩きをしているように見えて、案外選択肢は狭いのである。
ちなみに、いまから二ヶ月ほど前。とある書店の社長さんと揚子江菜館で会食をした。「ここは冷やし中華が名物なんですよ」とご馳走してくれる社長に、自分は冷やし中が苦手であることなど言えるはずもなく、初めてあの五色涼拌麺をいただいたのだった。
酸っぱかったなー。
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