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修論を終えて

2022年の秋ごろから2023年の2月にかけて修論に取り組んでいた。個人での経験を踏まえて書き記しておきたいことがある。

修論に取り組んでいる最中はほとんどノイローゼのような陰鬱な気分が多かったような気がする。理由は幾つかあると思う。

一つは、研究そのものの大変さである。同軸に比較できるものではないが、インターン等の仕事の成果を求める営みと比較しても研究の方が数段上の大変さ、ストレスがあったような気がする。大変さを少し分解してみると、そもそも研究の営み自体の難易度の高さや成功体験の機会の少なさなどがあるだろう。教授たちから要求されるのは先行研究との違いや、新規性、有用性である。自身の研究との比較対象で見るべき論文たちは、プロの研究者たちがチームを組んで助成金を貰って実施した英語で書かれた研究成果である。まず英語が読めることが前提である時点で日本語話者にとってハードルが上がる。(deepLにはかなりお世話になった。)しかもこれらのプロの作品に対してアマチュアの個人制作が基本的に勝てる見込みなどほとんどない。それにも関わらず教授たちはそれを要求してくる。最初からプロの成果を要求されるコンサル職の1年目も同じような気分なのだろうか。最初は実感が湧きにくいが、このことは文献調査や研究を進めていくにつれて段々と分かってくるようになる。プロの論文たちと常に対峙しているから、真面目に取り組めば取り組むほど自分の研究の至らなさをどんどん知るようになるというのは、精神的に疲弊するものである。これをポジティブに捉えるならば、謙虚な気持ちを多少なりとも持てるようになったということがある気がする。先人の知の巨人たちに対して、畏怖の念すら生まれてくる。他には、研究は運要素が大きい性質も困難さに拍車をかける。テーマや指導教官との相性によってスルスルッと伸びていけるものもあればそうでないものもある。またどの方向性で行くかを検討するとき、良い成果が出る保証などないことに悩まされる。相当な労力を費やした割に、何も成果が得られないという経験はよくあることである。そうなってしまった場合、内発的動機を保つのは非常に困難だ。特殊なメンタルトレーニングが必要になるだろう。

二つ目は、研究活動を取り巻く環境面の悪さについてである。環境というのも色々ある。根本的な問題は成果主義と教育機関の矛盾である。そこに、経済的な余裕の無さと日本の前近代的な師弟文化の負の側面が加わったようなイメージがある。研究室を運営する大学教授は基本的には研究者として成果を出すことが第一に求められる。なので会社の上司と異なり、コーチングやマネジメント理論を心得ていない場合が多い。私自身プログラミング教育のインターンをしてたので、なお実感するところである。しかもそこに経済的な負担がのしかかってくるので拍車をかけてしまう。日本は、国も民間も基礎研究を冷遇していることは多くの著名な研究者が訴えていることである。これらの複合的な要因が重なり、アカデミア界隈の匿名掲示板には色々な遺恨が渦巻いていることを確認することができる。

コーチングの失敗(ダブルバインド)
成果主義の優先により問題の隠蔽
人生設計への悪影響

院生は人口全体の中でも相当少数である。このような小さな母数しかないのに、未だにコンプラ時代の絶滅危惧種のような人間関係の問題を多く垣間見ることができる世界なのである。ある国立大の院生は8人に1人がハラスメント経験者であるという調査もある。このような状況では柔軟なアイデアの発想や、生産性に悪影響が及ぶことは想像に難くない。研究そのものの性質に加え、何をするにしても否定感ばかりが募り、肯定感を養う機会に乏しく幸福度は著しく減衰する。私自身も、周りの人々も例えば発表会等のイベントは基本的に面前で教授から詰められるという経験をした。上記の画像に挙げられるほど苛烈なものではなかったことが幸いである。しかしこのような環境を受容できるキャパシティは人それぞれである。留年や中退するケースも身近に見た。教授たちはロジカルにクオリティを高めるための必要性を掲げ、体に染み付いた伝統的な組織文化を無意識に持っているので何も悪気なくこの問題は表出するのである。物事のクオリティを高めるための方法論として、Encouageする支援型コーチングの文化は未だに希薄であることが多い。構造的な上下関係の問題や、流動性の低さから定着された既存文化を棄却することができないのである。そのため、下からの圧力で変えることは困難を極め、人によっては逃げる選択肢も持てないのでこの問題は我慢するほか無いのである。

このように個人的な経験から、より一般論で考えるきっかけを得て、さらにマクロ的に状況を整理してみる。日本は海外に対抗すべく研究者を多く生み出そうと大学や大学院を増やした経緯がある。博士課程の学生の間口は以前と比べて広くなっているとは言うものの、博士課程は地獄への片道切符だというようなネガティブな表現がネット上には溢れかえっている。まず研究者のポストは増えていないのでとても少ないポストを奪い合う熾烈な競争社会となってしまっている。さらに生殺与奪は指導者側が握っている構造であり、師弟文化を継承していて流動性も低いため、ハラスメント体質になりがちである。民間企業も新卒一括採用で年功序列であるため、博士に対する評価は海外に比べて不当に低い。経済的にも貧困であり、数百万円の奨学金(借金)を抱えバイトしながら博士課程をしている人も多いと聞く。海外では博士課程はキャリアステップの一環であり、基本的には給与をもらって研究という仕事に従事する認識であることと比べると、とても不遇としか言いようがない。しかもSNSで昔の同級生がどんどん社会活動をしていることが可視化されてしまうので、自身の環境を比べることもできてしまう。修士ですらメンタル的に厳しい環境であったのに、Doctorコースは想像もつかないものである。私自身も、ノイローゼ気味になった要因に、インターン活動と修士の研究を比較してしまうことがあった。インターンは、心理的安全性の概念やコンプライアンスがしっかりしており、ただ何かを開発しただけの小さい労力でもしっかり褒められ認められる。誰かの役に立てたという充実感もあり、更には給料も貰えるというから、天国にいるような気分だ。対して研究は、仕事で求められるよりも難易度の高いプログラミングであることが多いにも関わらず、なにか作っただけでは全く評価されない。ヤッコー研究(やったらこうなっただけの研究)という批判を受けるか、プログラミング作るのは当たり前であると一蹴されるだけである。加えてこの環境にお金を払っており、誰かの役に立てた実感が得られることもほとんど無い。

博士課程の不遇と民間での活躍

低い年収の有期雇用を転々とするポスドク問題(高学歴ワーキングプア)は度々メディアで取り上げられる。博士課程と同じような努力を民間で行っていれば、活躍の機会は大いにあるし、経済的にも裕福になれるのが現実である。ポスドク問題を解決しない限り、博士課程の優秀な頭脳たちが使い潰されてしまうという、個人の人権問題に加え、国としても大きな機会損失となってしまう。また、昨今は博士課程に行ける能力をもつ優秀な頭脳たちが、外資系コンサルや外資系Techに流れている。日本の未来のために、国民全員が思考リソースや予算を教育面に投資することを真剣に考える必要があるのだと思う。

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