Swear Wordについて(続き)

先日この文章を書きましたが、現地で生まれた人(特に、英語母語話者)よりも非母語話者のほうが汚い言葉をよく使う傾向にあるということがずっと気になっていました。

クリスマス休暇の一ヶ月間に4人の友達の家に泊まりに行って(いずれ書きます)思ったことでもあったのですが、はじめは英語を話す親の存在があるのではないかと考えました。

いま、頭の中でぼんやりと「きれいな言葉を話す人」「汚い言葉をよく使う人」という区別で友達を分類しているのですが、悲しくも後者の「汚い言葉」に分類されてしまった友達のお母さんがわりと汚い言葉を使っていたからです。

英語を学習する、習得するときに母語話者の親(ここでは「言葉の良し悪し、言葉の規範が身についている人」とでも定義されると思います)を持たなければ、他に学ぶ教材としてメディアや動画など、特にインターネット上の英語に触れる機会が多く、それらは個人向けに作られたものだから汚い言葉が多く含まれている→汚い言葉の規範が身につかないまま英語を学ぶ、というプロセスが一見すると道理が通っているような気がしました。

しかしこの考え方は、その人の母語の中での言葉の規範が無かったのか、と言われるとかなりもろく思えてきます。

というのも自分がそうだからです。これまで悪態をついてこなかったし、英語を話しているからといって悪態をつかなければならないということも当然ながらないので、はじめは少し誘惑にかられましたが、絶対にSwear Wordを使わないようにしています。

日本語を話す人の中で、いわゆる婦人や紳士みたいな人を除く、広義の「身の周りの人」で、自分より汚い言葉を使っている人を思い出そうとしても思い出せません。日本語は「悪態がない」という意味では「美しい言葉」とも言えるのかもしれません。

よくSwear Wordの話題になると、意味合いがほとんど同じな各国の悪態が出てくるので、日本語はかなり特殊な例なのかもしれません。

上で「誘惑にかられた」と言いましたが、それはつまるところ便利な言葉だからです。便利だから英語でみんな使うのです。もちろん意思疎通の話ではなく、何かと言われるとストレス軽減のほうだと個人的には思っています。

あと今Fワードを口に出してみましたがどうもしっくり来ません。日本語の規範に思考回路が乗っ取られているとも言えますし、英語の規範が身についていないということもあるのかもしれません。

よく悪態を付く人は言葉の「重さ」を感じられていないような気はします。これは「規範」を言い換えた言葉でもあるかもしれません。

小学生の時、あれは確か4年か5年の時なのですが、上級生のうちで「ファッキュー」がある日突然流行しだしたのを覚えています。その時は単純なカタカナ言葉、外来語として認知していました。その人たちがどこでその言葉を聞いてきたのか知りませんが、言葉の持つ重大性というか、深刻さについて、その場にいた児童は自分も含めて誰も理解していなかったと、今になっては思います。

中学や高校で英語を学び、また映画やドラマに触れるようになってから、その言葉を軽々しく言ってはいけないということをだんだん理解できるようになったのを覚えています。

少し気になって「日本語 悪態」で調べてみたら、この本が見つかりました。

日本人は、「悪」であるはずの悪口が言い方によっては親しさや愛情表現になる、という共通認識を古くから持っていた。「バカヤロー!・ブス・甲斐性なし・犬畜生・泥棒猫・クソ食らえ」―、日本語の中の悪態・罵倒語に焦点をあて、その用法の変遷を振り返り、現代を生きる私たちとの関わりを考える。クスリと笑えて奥深い、日本語を味わう一冊。

内容(「BOOK」データベースより)

ここに書いてある例は、あまり日常的に使わないというか、そもそも「クソ食らえ」以外は人に対して使うもので、英語でいうSwear Wordとは性質が違うと思います。「クソ食らえ」も、英語の小説や映画の翻訳・字幕で見ることのほうが多いような気もします。

とすると、SワードやFワードを誰に言っているのか、というとやはり神なのでしょうか?キリスト教圏だから、いつも神が我々の行動を見ている・制御している、という意識のもとで悪態をつく、というのが傍から見ていると理解できる説明のように思えますがあくまで推測です(「罪の文化・恥の文化」を念頭においています)。

結論としては「Swear Wordを使うと英語の文化に馴染んでいると思っていた時期があったけど、使わないほうが色々とお得だよ」ということで終わります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?