私の中のフェミニズム

自分の政治的立ち位置を考えることがある。私は右翼なのか左翼なのか、と。

過去を振り返って、今の自分が昔の自分の政治的立ち位置を言い表すのは簡単だ。高校時代の私は間違いなく日本を憂う「ネット右翼」的思考の持ち主だったし、大学時代はその反動か、ネット右翼からすれば紛れもない「パヨク」だったように思う。現在は、少し左右に揺れたように思うが、「ジャスト真ん中」なんてことにはなりえないし(自分のことを「中立・中道」なんていう人はあまり信用できない)、未来の自分に判断してもらうしかないという気もしている。自分の政治的立場というのは相対的で、自分の考え方が変わらなくても、社会や所属する集団によって規定される。「ネット右翼」のコミュニティに入れば私は左翼的だろうし、「パヨク」の人々から見れば私は右翼的だとみなされると思う。

同じように、自分は「フェミニスト」なのだろうかと考えることがある(「フェミニスト」の定義を深く考察できるほど、自分にはそれに関する知識がない。ここでは世間一般で言われる「フェミニスト」として緩く扱いたい)。私はこの日本社会が男社会だと思うし、女性が不利な社会だとも思う。もっと女性が働きやすく、キャリアアップできる社会であってほしいと願っている。そのために、自分も価値観を更新していかなければならないとも思っている。

とはいってもツイッターで見かける「フェミニスト」的言説には、言い過ぎではないか、それは極端ではないかと思うことがある。「フェミニスト」的なものから少し距離を置いておこうと感じることもある。ただそんな私から「フェミニスト」が、あふれ出してくる場所がある。実家だ。

私の職場では、男女が同じ給料をもらって、同じような仕事をこなしている。性別で仕事が割り振られることは「あまり」ない。また、職場にはもっと自分より「フェミニスト」がいる。そんな環境では私が「フェミニスト」的言動を表明する機会も「私はフェミニストだ」と思うこともない。でも、実家は違う。

親元を離れ一人暮らしをしてから長い年月が経った。正月に実家に帰って、親戚の集まりに参加すると自分の中の「フェミニスト」が疼く。実家の新年会。男性陣はずっと座って、酒を片手に飯を食っている。女性は料理を支度して、その合間に料理をつまんでいる。男が動く様子はない。たまのトイレで席を立つだけだ。この光景を誰も不思議と思ってないようだ。そんな時「ちょっとは男も働けよ」と思うのだ(と言いつつ、私は何してたっけ)。

こんなこともあった。私が社会人になって1年目の夏くらいだったか。実家に帰って、家族で飯を食べに行った時だ。母親の誕生日の祝いを兼ねていた会で、弟がプレゼントを用意していた。父親も誕生日が近く、私はあまり実家に帰らないので、「ついで」というと失礼だが、私は父親に誕生日プレゼントを準備した。私は父にベルトを贈ったのだが、弟が母に渡したのはなんと「炊飯器」だった。ベルトは父自身が使うものだが、「炊飯器」は結局家族の共有物となる。それが本当に母へのプレゼントになるのだろうかと疑問で頭がいっぱいになった。母だっておいしいご飯が食べられればうれしいだろうが、「父」「弟」だって食べる(弟は実家暮らし)。母に「飯を炊け」と言っているようでとても不愉快になった。たまらず「プレゼントに炊飯器はないだろう」と問いただしたが、弟は「母が欲しいと言った」と言うばかりだった。会社の中では私は「フェミニスト」ではないが、実家に帰れば私は立派な「フェミニスト」なのだろうと思う。

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