文章の自由

今日の午後、友人に「わたしがネットで自由な文章を書くことは、もう終わったんですね。そのくらい大きな過ちを犯してしまったんですね」とLINEで尋ねたら、「少なくともtwitterではそうだと思います」と言われました。

その友人には、『心の壊し方日記』は出すべきではないと再三言われていました。きっと彼女は正しかったと思います。わたしは事柄を客観的に観て、自殺未遂という愚行をひもで括るように、固めて捨てて次に行きたいと思っていました。ずっと一方的に意見を言われる立場だったので、炎上に関してもわたしが感じていた事実を、述べる機会を与えられても良いのではないかと思っていました。それが気に入らない、納得がいかない人もいるだろうけれども、わたしから見て辻褄の合うことを書く場も欲しかったです。でもそれは、反省の態度ではありませんでした。

本とネットは、正直ネットの方がダイレクトで、人に強い印象を与えると思います。本で残したから正史になっていくという意見も拝見しましたが、当事者のエッセイをそうそう鵜呑みにして正史にはしません。映画ライターとして、まさにインタビュー本に関わり続けてきたので、穿ってみる癖がついています。ネットも、スクショを残す文化がありますし、閲覧数が多くて検索でも残り続けるものは、すぐ廃本になる書籍に比べれば価値に違いはありません。

友人に「本を出したことは間違ってないと、まだ思っているんですよね」と尋ねられましたが、キャンセルカルチャーの域を超えて、いじめのように叩かれるのは不本意というのが、正直な気持ちです。もしわたしの立場を理解してくださっている方も、表立ってわたしに同意して、アンチの人から一斉に叩かれたら恐ろしいでしょう。だから、わたしはいま、多くの人から見て見ぬふりをされています。大人なので仕事は通常通り頂いてこなしていますが、わたしのトラブルに関して意見を述べる人はほとんどいません。

わたしは強烈な孤独を感じています。一緒に本を作った担当編集者からも一切連絡はありません。味方がいない、助けがないと思っています。意外かもしれませんが、そういった慰撫の言葉をかけられることはないのです。家で一人で書き物をする仕事の人間としては、正気が保てるか不安になるほどです。今のわたしには、本当に映画しかありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?