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渚ようこさんのこと

流行は繰り返すもので、90年代後半には70年代のブームがあった。高円寺の古着屋にはデッドストックのベルボトムや超ミニのワンピースが売っていて、センター分けのロングヘアや、アフロの友人も何人かいた。
音楽もそういったものをみんな聞いていて、幻の名盤解放同盟も悪趣味なだけでなく、昭和趣味という面があったと思う。裸のラリーズのファンも被っていたし、聞けるものは聞こうという雰囲気だった。

その中でプロとして売れていたのが、昭和歌謡の歌姫というべき、渚ようこさんだった。わたしは当時、ブログや雑誌で日本の昭和の映画紹介をやっていたので、渚さんの世界観も好きだった。最初は地元の名古屋で、途中から再上京して東京に住むようになり、映画評論家の方から飲み会に呼んでいただいたりするようになった。
ある日、日活ロマンポルノで、長年編集をされていた白鳥あかねさんが何かを受賞されたパーティーがあった。わたしも呼んでいただいたが、そんなに知っている人がいない。引っ込み思案なので居場所に困っていると、とても輝いている二人の女性がいた。一人は渚ようこさんだった。あのメイクで、黒っぽいドレスアップも素敵だった。もう一人は昭和を感じさせるイラストを描かれる、篠崎真紀さんだった。ネットでもお二人が仲良しなのは存じ上げていた。確か、篠崎さんにtwitterでフォローしていただいていたのもあって、おずおずと名乗った。渚さんには「あー知ってる!」と仰っていただいて嬉しかった。
その夜はわたしの大事な思い出だ。映画人が大勢いて、渚さんと篠崎さんとお話できて、田舎者のわたしにはサブカル絶頂だった。人生にはこんなことがあるんだなと思った。
その後、新宿のゴールデン街に通うようになって、渚ようこさんがママさんの「汀」に時折顔を出すようになった。渚さんは気さくに話をしてくださって、いつも楽しかった。わたしは騒ぎすぎな悪い客だったと思う。うるさくして申し訳ないです。

ある日、いつものようにスマホを見ていたら、「昭和歌謡の渚ようこ死去」というニュースが視界に入ってきた。不意に、足元をすくわれたような気がした。追って友人からは自殺だったらしいと連絡は来たけれど、死因は公表されていない。だから死因についてはなんともいえないし、ただ、この世を去ったとしか言いようがない。
渚さんにとっては、わたしは大勢いる「汀」のお客の一人だったけれど、わたしにとっては理想とするお姉さんで、憧れの人だった。渚さんのように生きたいなと思っていた。そういう存在が消えてしまい、道標は靄の中に消えた。いや、もっと悪いことに、その靄の中が道標になった。
渚さんはそんなつもりじゃないだろうから、わたしはわたしの道を行かなければならない。ギリギリでも日々を大事に生きていこうと決めたのだ。ただ、いつも心のどこかに渚さんの姿があって、思い返すたびにひたすら寂しい。

84円の手紙が110円? 他のものはどのくらい値上がりしていくの? わたしは必死に生きていこうと決めたけれど、どうしようもなく、生きようがなくて殺されてしまうかもしれない。

※写真を無断で使用させていただいています。問題がございましたらご連絡ください。


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