仕事の前の日に

すっと目が覚める。朝日をまぶたの向こうに感じながら、少しだけ湿度のベタつく朝。いつもとは異なり、不快感や寝不足を感じない朝。
仕事や学校のない朝は早く起きてしまう。早く置きたいわけではない。休みの日くらい長い時間寝かせてくれてもいいと思うが、精神的な圧力を感じないからか、休みの日は目覚めが自然に早くなる。
休みの日に溜め込んだ負債を緩やかに消化していくところから朝が始まる。けれど、平日は食べない朝食も口にしたい。休みの日くらい、朝はゆっくり起きて、コーンフレークなど、簡素だが豪華に感じるような些細な朝食を口にしたい。
負債の消化の前に朝食とすると、次の行動に移すことができなくなる。悲しいことに、朝食を口にして、携帯電話や雑誌、テレビを見てると、気づけば時計は午後を指し示す。
明日はまた仕事。そう考えると、動くことも煩わしくなり、どうせ明日がまた訪れるならば、このままでも良いかもしれない。負債の消化とは何だ。生活するうえで必要か。着用した服を洗うことや、使用済みの食器を洗うこと、床掃除をすることや入浴すること。どれをとっても、生きることに必須かと言われると、そうは思わない。生きることは、ただ呼吸し、ただ食事し、ただ、朝日を浴び、夜眠るだけという生活であれば、生きている意味そのものがないのだろうか。生きることそのものとは、死んでいないだけであって、雑用を熟すことではないと思うが、死んでいないだけの人間は生きていると言えるのだろうか。
何をどう考えても、やはり明日は許しを得ずとも目の前に現れる。止めるすべがなく、仕事では誰かと会わなければならない。そうなると、夕日の差し込むこの時間、ここまで何もせずの廃人のごとく停滞していた自分の時間を動かさねばならない。外は小さな光が灯りだし、今日の終わりに、始まりのような雑務を熟す。洗濯、食器洗い、掃除、料理。今日もまた、死んでいないだけの休みが終わる。明日は、生かされている一日がまた始まる。

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