仕事でも別れが悲しいこともある

惜しい人をなくした。と言うと、勝手に殺すなと言われるかもしれないが、もう日常的に会わないのであれば、死んだも同然かもしれない。
多くの人が学校を卒業すると、一般社会において労働を強いられてしまう。私も大多数の一人であるため、一般的な企業に一般的な立場として、大多数と同じような人生を歩んでいる。労働に勤しむことは、生きるうえで非常に大切で、数千年前はこれが狩りであったり、稲作であったりした。それぞれは現代でも行われているが、いわゆる大自然の一部として、行っているわけではあるまい。どちらにしても、生存するためには、やはり労働が必要で、他人との関わり合いも重要だということだ。
労働そのものは不快でしかないが、その中で得られることもある。最低な言動を繰り返す人や、仕事ができない人、不満のみで行動に移せない人など、不快になる人は数多くいる。そんな環境で働き続けていると、私の言動をもおかしくしてしまうのではないかと不安になることもしばしばある。
しかし、そんな環境下であっても、時たま、運命的な出会いもある。これが恋愛や性的な意味ではないことは理解しておいてほしい。ともに仕事を進める中で阿吽の呼吸があるような、ツーカーの仲とも言えるような人との出会いだ。同性であることも、異性であることもある。ただし、それが恋愛対象になるというわけでもなければ、愛する人になり、嫉妬深くなるということもない。極めて、仕事上の付き合いとなる。さしずめ、お笑い芸人のコンビやトリオのような関係性だろうか。個人的にはそれらの関係性に深く理解があるわけではないが、ともに仕事で成功を収めているような関係性だと理解してほしい。
このような人と出会えるのは、どれだけの確率なのだろうか。地球上の全人類での比較だとわかりにくいか、国内の全人口か労働人口で間作すると、どちらにしても1%以下といったところかもしれない。私は幸運なことに、これまで二人の人と出会った。仕事上、非常に尊敬に値する人たちだ。年齢は年上と年下で、片方が異性で片方が同性だった。どちらの人もこれ以降ともに仕事ができない事がわかったら、自然と涙がこぼれてきた。そんな人だった。
彼らとの仕事というのは、それぞれ異なる時期だったが、思う感情は同じだったように思える。数十年生きてきた中で、不快な労働に務め、それでもともに働けてよかったという人に出会えたのは本当に幸運だったのかもしれない。
世界にはブリリアントジャークという言葉があるらしい。仕事をともにする他人が、その会社の和を乱すような人だったとき、そのような人をそう呼ぶらしい。私が過去、仕事をともにした人の中には、そのような、会話するだけで不快になるような人も少なからずいた。そのような人に出会ってきた経験から、どのような共通点があるかと考えた。多くの場合、表情と態度だと思う。感情の起伏も加えておこう。会話をしていると、その本人にとって嫌なことが会った瞬間に、顔を歪ませたり、明らかに態度が悪くなったりする。これが冗談交じりの表情で、笑いに変わるものであればよいが、私の会ったこのような人はそのあと、全体の空気も悪くなる。これはある意味才能だ。他にも仕事をするには、何かが欠けていると感じる人は様々いるし、私自身も周りからそう思われている可能性があることは、忘れないようにしたい。
ただ、先にもあげた、私の出会った、最高のしごと仲間としてあげた二人は、本当に人間としても素晴らしかった。原則として、彼らの会話の中では、他人を傷つけるという状態が発生しない。もちろん、誰かの行動が気になったり、違和感を感じたりと言うような話題は発生するが、その中に侮蔑の言葉や強く否定する言葉出ることはない。私も性格が優れているわけではないため、意地悪な返答をすることがある。どうしても彼らに侮蔑の言葉や不快感が強く現れた言葉を言わせたくて、誘導することもあったが、何をどうやっても、強い否定の言葉や侮辱的な表現はでてこなかった。加えて、人間であるからして、ときたま気だるさのような気持ちの表現があるものの、辛さなどを表現する具体的な言葉も殆ど出なかった。私からしてみれば、何を我慢しているんだ、思っていることであれば、言えばいいだろうと考えるが、彼らは、自身が辛いときであっても、積極的に辛いと言葉として表明しないため、場の空気が悪化することがないのだ。見るからに我慢しているわけではなく、ただ言わないという感じだ。私は辛ければ辛いとすぐに言葉に出してしまうため、このような姿勢は学びたいところだ。
一番感じたところでいうと、怒りだろう。怒りがあるという意味ではなく、ほとんど怒りを感じなかったという話だ。対話をしていて、異常なことがあると、おかしいと言う場合は多いが、怒りに任せて、語気が荒くなったり、怒りの言葉が連発するという状況を見たことがない。半分それらを受け入れている感じだろうか。悟りでも開いているのか、と思うくらいだ。
このように、菩薩のような人と仕事をしていると、それはもう気が楽になる。どのような無理難題があっても、ともに考え、ともに行動できると思うと、仕事の朝、目覚めも悪くないのだ。しかし、それぞれには、人生がある。その人生の中では、私と仕事をしていた環境から退くこともある。世の中には、成功する人だの、うまくいく人だの、評価される人だの、そういう人になるためにはどうすれば良いのか、という都合のいい自己啓発のような書籍が多くある。本当に紙の無駄だ。これらに書かれている人間にはなれないし、書かれているこは、だいたい誰でも思い尽く事柄ばかりだ。そんなよくわからない本で学ぶより、私は、仕事で出会った最高の同僚がそのまま本になれば、万事解決し、多くの人に新たな学びを与えることができると考えている。
けれど、生き物に永遠がないのと同じように、人との出会いにも永遠はない。いつか別れが訪れ、その関係性を惜しむことがある。私も生きている中で、共に時間を過ごした人に対して、このような惜しむ気持ちをもったのと同じように、私も彼らをみて、彼らのことを知って、私自身の行動を改め、一人でも多くの人に、私と過ごす時間が快適なものであり、互いに不快感を最小限にしていきたい。誰かに惜しまれたいとは言わないが、これからも多くの人に惜しむ気持ちを感じられるようにできると、もっと生きるのが楽しくなりそうだ。

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