行動の喪失と明日

皆辛いが同じではない。
人は主観でしか考えることが出来ない。客観視しようという人もいるが、そういう人に限って、客観的に自身を見つめることが出来ない。というより、人は、そもそも客観視できるように出来ていない。
私は、幼少期からずっと不思議だった。この見えてる目線。皆もおそらく同じ様に見えているだろう。だが、他人と同じ目線と同じ目線を見ることが出来ない。人は、入れ替わることが出来ないからだ。客観視出来ないことを証明する明確なものとして、自身の身体がある。自らの身体を隅々と肉眼で見ることができる人は世の中にいないだろう。特に自身の首筋、腰回り、さまざまな箇所どころか、自分自身の等身大の姿を外部から見ることはできない。出来たとしても、それは写真などで、常に平面的であり、肉眼ではない。肉体的に人が客観視出来ない時点で、思考や行動を客観視できるわけ無いだろう。なぜ、こうも人は客観視という言葉に縛られているのだろうか。
私の経験した中では、客観視という人は、基本的に人の話を聞かない人だった。何をいいたいかというと、常に自身の意見を相手に言い聞かせたい人だということだ。相手に主観ばかりで、客観的ではないということで、相手に自分の意見を受け入れさせる余地を作る。どのような物事も主観的に進んでいるにも関わらず、相手は、自分の意見を相手に理解させたいし、納得させたいし、文句を言わせたくない。他にもそういう意見や考え方があると、受け入れさせるために、あなたには客観視が足りていないと説教をするのだ。人の意見を聞いていないのはどちらかというのは自明だが、それにも気づいていない。なぜなら人は客観視出来ないからだ。
俯瞰ということばも一緒だろう。俯瞰とは何だ。人工衛星に乗っているのか。羽もなければ、浮遊術も使えない、人が乗っても飛翔できる鳥なんてものも存在しない。人が俯瞰することなんて物理的にできない。物理的にできないことを想像だけで補完することができるわけない。その領域に到達できるのであれば、それこそ全知全能の神だろう。人は人に迷惑をかけて生きている。互いに注意したり、互いに補い合ったり。ただそれを忘れてしまった人は、人に全知全能を要求する。仕事においても多能工になれ、などという。
客観も俯瞰も人が持ち合わせてない能力だ。それを強要したり、相手を非難する主題にもってくる人は、自らが自らの行動を把握できていないだろう。
つまり、人は、自らの視点で自ら行動を起こすしか出来ない。時たま、これが非常に辛くなる。周りから見られている時どうなんだろうか、と。街を歩いていても、周りの目が気になる。もしかしたらおかしな服装か、変な臭いか、話し方、表情、なにか相手に違和感を与えていないのか。客観視出来ないというのは不便である。そのような言葉があれば、できるようになっていてほしいと考えるが、人は、それができない。
そういうことばかり考えていると、この様に思うことがある。私一人がこの世から去っても、明日も変わらず世の中は動き続ける。世の中には変化なく、明日もどこかで争いが生まれたり、喜びや悲しみがある。だが、それらは、私の生死には関係なく、ただひたすらに続けている。辛いことがあったり、自らの行動を反省する時、客観的になることは出来ないが、そのような自身の行動が、最終的に何にも影響を与えてないと考えると、無性に行動できなくなってしまう。考えすぎることも良くないかもしれないが、私の行動が世の中になにも影響を与えていないと考えると、行動しなくても良いかもしれないし、生きなくても良いかもしれないと、明日を見ずに自身を終わらせたくなってしまう。ただ、いまも私が生きているのは、この主観をまだ見たいという気持ちがあるからかもしれない。辛いことも悲しいこともある。この主観がなくなれば、嫌な出来事に触れなくても済むようになるかもしれない。だが、同時にいい出来事にも触れられなくなってしまう。人は客観視出来ないため、いま自分自身がどのような状態か、測ることは難しいかもしれない。けれど、主観で得たいものを取捨選択することができる。誰のためにではなく、自らのためにある主観を客観的な考え方や思想にとらわれることなく、納得し、満足できるように使いたい。

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