ゼロサムライフ

この世界では、幸せの総量が決まっている。幸せだけではない。反する不幸においても同様に総量が決まっている。
今の世界では、人々は非常に多く溢れかえっている。この現状をどう考えるか。総量が決まっているといっても、それが実数として常に固定の総量かといわれるとそういうわけでもない。
幸せなどの総量は、それぞれの生き物に対して、実際の量が定まっており、それぞれの生き物の増減についても、総量が変動している。だた、残念なことに、この幸不幸の総量は、それぞれの個に充てがわれているわけではない。常に人生を不幸のまま過ごすものもいれば、幸せのまま人生を圧倒することもある。つまり、全体での幸不幸の総量が決まっていても、すべての個に、等しく幸不幸が訪れるわけではない。
更に、人によって、幸不幸に感じる物差しが異なっているため、幸せな人生を全うしたと感じる人であったとしても、その個に与えられた幸せの総量が、他の人にとっても同様に幸せな人生とは言えないのだ。
日常的に、道端の花に美しさを感じ、生の実感を幸せに思うものもいれば、自由で遊戯に満ちた人生を幸せだと思うものもいる。そのため、それぞれの幸不幸の実感が、どの人においても同等の幸せだとは限らないのだ。
そして、この世界はよくできている。幸不幸をより多く占めたいと考えていても、それが簡単に実現することはない。生まれながらにして、それぞれの個には、死ぬまでの間に受けるであろう幸不幸の量が決まっている。そしてこれは、殆どの場合、死ぬまで変動することはない。ただし、中には、幸不幸をある程度調整できるものもいる。それは、欲深くないことだ。欲深いものには、あらかじめ与えられた幸不幸より増減することはない。
与えられている幸せよりも多くの幸せを受けたものは、持て余してしまうと考えることがある。それは必然的に、身近なものへと転嫁することとなり、欲深いものに、幸せが与えられることはない。
しかし、非常に残忍なことに、このような欲深くない一例として、素行の悪い人も含まれることがある。特に、不要なものを道端に捨てることや、公共の場での騒音を撒き散らすような人だったとしても、同じく幸不幸が充てがわれており、そういったもののほうが、些細なことに幸せを感じることがある。
要は、幸不幸の総量が世界で定められていたとしても、その感じ方に寄って、自由意志を持って人生を謳歌していると言える場合がある。この幸不幸の感じ方によって、充実度が変わってしまうのは、物事の些細な変化や周囲の状況に不快感を感じるような人には難しいかもしれない。
素行の悪い人への不快感を常に感じていたり、ささやかな騒音においても、強い負担を感じるようなものは、不幸の総量が少ない場合でも、自身は不幸であると誤認してしまい、自ら土壺に嵌ってしまう。
幸せと同様に、不幸も総量が決まっている。それは、個に対して、どちらが多いかということは定められておらず、人によっては、不幸の総量が多い場合もある。感じ方一つで、不幸であるかを決めるのは自分自身だ。会社に勤めている場合、周囲の環境に耐えられず自死を選ぶこともあるだろう。だが、少なくとも自由意志を持っているため、その環境から離れることも可能だ。よって、不幸がどのような配分で充てがわれていたとしても、不幸の連続性を一定の行動で打破することも可能だ。もちろん、そのあとも異なる環境で継続的な不幸に見舞われる可能性も否定することはできないが、少なくとも、その時点での不幸を止めることはできるはずだ。
より完結なものであれば、宝くじがわかりやすいと考えている。例えば、現状の環境にストレスを感じてしまい、宝くじを多額購入する人もいるだろう。だが、赤字になりつつ宝くじを買うことと環境から脱することとどちらが容易だろうか。環境から身を移しても、宝くじは当たらないかもしれないが、自身が感じている不快感は、ひとまず消し去ることができるだろう。また、新たな環境に身を置くことさえできれば、人は、その後でも生活を営むことができる。この世界では、仕事などをやめただけでは、簡単に死ぬことはない。これが、類人猿の頃であれば、狩りでもしていなければ、生き続けることはできないため、数万年前に比べれば、不快感を感じないようにすることは簡単だろう。
しかし、このような行動をするにも決意というものは必要だ。そのため、人は、即座に何かを辞めるということが苦手であったり、不安になる場合もある。そのような状況では、なにかに身を委ねることも重要となる。幸不幸の総量が決まっている中で、死ぬまでに一度も宝くじが当たらないものは、明らかに幸せの総量が足りていないと言えるだろうが、事前にそれがわかっていれば、誰しも宝くじは買わないだろう。そうなると、宝くじの売上が減少するため、宝くじそのものが破綻するかもしれない。
では、幸せの総量がすくない人はどのように生きていけばよいだろうか。この世界におけるゼロサムライフにおける幸不幸の総量について、常に考えてきた。なぜ、私は、彼の人よりも幸せでも人生を楽しめてもいないのだろうか。幸不幸の総量に関わらず、私が感じたのは、傲慢さだ。この言葉につきるが、この傲慢さは様々な意味を孕んでいる。自分が選んでいる側だと思いこんでいたり、自身の行動を周囲の誰も不快だと思っていないと考えていたり、世界の中心だと考えているような人だ。こうなると、もし不幸が降り掛かった場合においても、自身を中心だと考えているがゆえに、どのような打撃も受けない。ただ起きたものであり、それはコントロール可能なものだと考えることができる。
繊細さを売りにしている人や、常に自身が不幸だと感じているようなもの、そして、常に現状を維持したまま逃げ道を探しているような場合は、幸不幸の総量がどのような状態であったとしても、結局のところ、不幸を感じてやすくなってしまう。そういう人に限って、自分が世界で一番不幸だという顔で道を歩いている。もしかすると、幸せの量が0に近いほど少ない場合は、そうかもしれないが、幸不幸のどちらであれ、最終的にはそれをどの様に感じ、どのように受け入れているのかというのが、重要になってくるのだ。
しかし、私は、現状を維持しつつ多幸感に恵まれたい。そのために様々な挑戦を行おうとしたが、大前提に現状維持があるため、どれも三日坊主になってしまう。同じ様に考える人は多いだろう。死んでしまえば、世界は終わる。それは、主観で生きることしかできない人だからだ。死んだあとは何もわからない。であれば、世界を支配しているのは自分だと考えながら、求めることに忠実であるほうが、より多幸感に恵まれそうだ。

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