止まらず転がり、止まるべきか考える

人生百年時代とは、どこから流れてきた言葉なのだろうか。百年、一世紀、生まれたての子どもにとって見れば途方もない時間かもしれない。言い方次第では、オリンピックが25回分といえばなんとなく短く感じるかもしれない。
時間という概念自体が、人の作り出した、自然環境には存在しない概念であることから、この百年や一年一年の時の流れは、人によって異なる。個人的には、百年という期間は、長く、重く、深いものに感じてしまう。
私も生を受けて、そこそこ生きてきたが、生活のほとんどは仕事で、趣味や快楽に至るような時間というのは些細なものだと考えている。これもまた不思議で、楽しいことほど時間が早く過ぎ去る。人の感じ方は曖昧であるから、やはり、一定の等速で時間が流れているわけではないと感じる。不快なことこそ、足が速ければよいのにと常日頃考えている。物事に対応する時間の同一性は、限りなく不公平ということだろう。
その時間間隔が多くの人にとっては同等の価値観を有することから、昨今では晩婚化などという表現が増えてきた。生物の生殖機能的な側面でみても、30代や40代以降の生殖は危険を伴うというのもあるが、婚姻自体が必ずしも出産を伴わない。それぞれの状況等によって変わるため、晩婚化と言われるようなある程度の年齢に到達した人同士の婚姻は必ずしも問題にはならないのだ。
これを考えると、若干の不安を凌ぐ事ができるが、私も現時点では独身である。世の中にどれほどの人数の独身がいるかは、想像できないが、身近にも独身がいる時点で、少数派と言い切れるわけではないだろう。
様々な理由を重ねては、不安をなきものとして生活しているが、唐突にそれらは簡単に瓦解する。久しく会わなかった学友らと邂逅したならば、やはり家庭の話になることも必然だ。複数人がそれぞれ、結婚や出産など話があるなか、私は勝手においていかれたと感じてしまう。もちろん、旧友らにそのような意思はなく、むしろ、私の方から話を振っているようにも思う。しかし、そこに居合わせた子持ちの旧友はおしなべて皆、当時は活発で問題の一つや二つ日常的に起こしていた。より簡素に言うならば、他人の目を気にせず、自身の思ったことを、思った通り行動することが多かったように思える。躊躇する機会もなく、言いたいことを言い、溜め込むことが少なかったものたちだ。この私の所感は、彼ら彼女らを決して批判したいわけでないということを理解してほしい。
私にとって、彼ら彼女らは憧れの存在でも会った。今で言う、イケてる集まりや美男美女の集まりというわけでもなかったが、自身を中心に行動でき、周りの目を気にしなかったその姿勢にあこがれていた。その中には、到底褒めることもできない犯罪に近しい事柄もあったが、その点はぜひ反省はしてほしい。
しかし、そのような特徴的な級友たちは、20代前半で家庭と戸建てをもち、飲食店や美容室、医療など生活に関わるような事業でお金を稼いでいる。中卒や高校中退も多いが、本人たちいわく、何をするにも学歴は関係ない、という。もっともだ。高学歴の人材にも会うことも経験したことがあるが、本当に学歴というものがない人らが言うと、説得力が違うなと感じた。
そんな自己中心的な行動の結果、いわゆる王道の家庭環境を築いている旧友らを時たま羨ましく思うわけだ。方や私は、独身であり子どももいない。機会があればと毎度話すが、本質的には一人が気楽で趣味にも没頭でき、他人の都合で自身の時間が左右されないという点も独身であり続けてしまう理由かもしれない。一人の時間が常にほしい人には、やはり婚姻や子育てなどは難しいかもしれないと考えてしまう。その時がおとずれれば、自ずと行動できるかもしれないが、現時点ではそれを証明することも裏付けることもできない。
そのうえで更に理由をつけて、自身を苦しめている。仮に婚姻したとて、どちらかの原因で子どもに恵まれない場合もある。一生二人で添い遂げるのか、はたまた別の相手を探すのか。そして、もし婚姻し、子どもにも恵まれ、順風な家庭を築いていても、私以外の皆が何かしらの原因で死別するかもしれない。どのような経路を通過しても、最終的に一人になる確率はゼロではない。そう考えると、失敗ありきの行動、つまり婚姻や子どもなどに関する事柄に億劫になるのも仕方ないのかもしれない。
ただ、このようなことは、旧友たちは考えない。きっと、どうにかなるだろ、そう答えるだろう。
私の人生は、この瞬間そして、明日以降も刻々と時間を進め、気づけば数日、気づけば、1年と遡れない一方通行を転がり続けるのだ。はたして、これを止めるには、どうしなければならないだろうか。

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