道行く人のすれ違うことが

まさかと思った。
いつもどおりの仕事の帰路で電車に乗り込んだ。電車の扉が開くと、もちろん電車から降りる人もいる。降車する人を横目に乗り込もうとすると、まだ降りていない女性がいた。何やら揉めているのかとよく見ると、他の男性客の鞄に自身の鞄が引っかかり、離れない状態となっていた。なんとか、解きほぐし、女性は降車できたが、一歩間違えば、奇跡の恋愛劇が始まるところだと、そう革新した。
春という季節は、出会いも分かれも、様々な起点となる事が多い。特に面白いと感じることとして、4月前後は、新入社員と就活学生が世に溢れ出る。街のカフェやレストランでは、スーツに着られた若者を多く目にする。もう当事者ではない私は懐かしみとともに、これから始まる彼らの未来を想像する。
私も数多くの人間と出会い、数多くの人間と別れてきた。私だけでなく、身の回りの人間ももちろん、見ず知らずのすれ違う人々も日々、出会いと別れを繰り返している。そんな中、やはり出会うと、別れも想像してしまうが皆はどうだろうか。私の場合は、誰かと出会ったあと、よく考える。この人とは、いつまで会い続けることができるのだろうか。いまは毎週あって、時たま遊びに行く仲ではあっても、来週、来月、来年まではわからない。喧嘩別れすることももちろんあるかもしれないし、互いに相手への関心を失いながら、緩やかに疎遠となることもありえるだろう。
生きることへの辛さというもののうち、もっとも影響を及ぼす要素は、この別れの想像だ。別れがあるのであれば、出会わなければよかったと。もちろん、死の訪れのよって別れることは、仕方ないと感じ、大きな打撃は感じない。だが、会えなくなったことによる、心の穴は埋めるために時間は要するだろう。
それ以上に辛いことは、相手は世界の何処かに生きているが、会うことがなく、互いに相手のことを忘れてしまうようなことだ。思い出として、終わってしまう関係性のようなことだ。
親密だった間柄だったが、別れてしまうとき、非常に悲しい思いをする。自分が悪いのか、相手に迷惑をかけたのか、金銭の問題か、頭を巡ることは非常に多くあるだろう。それも時を経てしまえば、傷が癒えることもあるかもしれない。思い出すたびに、心が絞り上げられる感覚に陥ることもあるかもしれない。
だが人は、外を歩き、他人とすれ違い、時には恋人や友人につながって生きるかもしれない。人間は一人で生きることが出来ず、不快だと思っていても最終的には群がり、集合体となっていく。それは、出会いや別れから引き起こされる悲しみや辛さより、一人で生き続けることの方が大きな心傷につながることを我々は知っているからだろう。

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