近く遠い喪失感の

人の気持の制御ほど難しいものは他にない。ヒトというのは、様々な種類の生き物の結果、今のあり方が成り立っている。その過程には様々な経験の積み重ねがあったと思いを馳せるときりがなく、そしてわくわくする。
ただ、現在の人間としては、大自然で必要だった能力などが重荷になりつつあると考えている。
嫉妬なんてものは、コミュニティの中で闘争心を燃やす都合の良い原動力だ。現代ではSNSや情報の広がり方の影響において、いわゆるストーカーのようなものが生まれてしまい、本来備わっている人間の機能が斜め上の方向性に向いている様に感じている。
たとえば、私は一人で遠方を旅するのが好きだ。地場の食事から人の雰囲気、その場所にしかない特別なものなどだ。あるとき、私を信頼してくれているような、好意を持ってくれているような友人とたびに出た。結果的には非常に楽しく、数泊もしたが、その時間は体感でより短く、旅の終わりに対して、強く嫌悪した。帰路について振り返っても、早すぎた体感時間に、それが幻想であったのではないかと実体験の伴わない空想の旅立ったような気がしてならなかった。実際は写真も撮影しているし、メッセージのやり取りも存在する。そのため、幻想という感覚そのものが挙行ではあるが、実体と感じなかったこの経験はなんだったのだろうか。
この旅からときの経たずうちに、一人旅に出た。一泊で現地には24時間も滞在していなかったが、ふとした瞬間に友人の顔が浮かぶ。一人での旅は慣れているはずだったのに、いつかの瞬間に強い孤独感を感じてしまう。孤独に思うことは誰しもあるだろうが、私にとっては、その友人と同じ時を過ごしていないことに対しての不快感に似た、喪失感だった。
過去の経験も振り返りと、旅に同行する者は、数回の旅行で、それ以降は、途切れることもあった。友人関係が険悪になったというわけではなく、気づけば距離が空いていたというような感覚だろう。私にとっても常に会い続けたいという相手は、いる。そういった相手に対しては、こまめに連絡をとるが、その相手が今何をしているだろうか。もしかすると、私との対話や旅に対して、不快感を痛いているのではないだろうか、そんなことが頭をよぎる。結果的に、疎遠となり、会うこともなくなる。ヒトの嫉妬や想像力、これらすべてが、関係性構築の上で、現代では衝突の原因になってしまう。
私だけではないだろう、この相反する気持ちそのものが、どの様に行動できれば、どの様に考えることができれば、コミュニティとして完璧であり、つねにそばにいつづけたいという者たちと同じ時間を過ごし続けることができるのだろうか。

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