ナルトを見る23歳。ナルトと自分を被せる、23歳。*ナルトネタ*

自分の人生は常に「究極の二択」みたいな分かれ道が多いように感じる。
今もその分かれ道の前に立ち、一時間ごとに変わる気持ちを、やりたいことがわからない自分への嫌悪感を、未熟で未熟な己に対する焦燥感を。
感じて認めて話してまた悩む。

「流れのままに生きています」なんて自分の自己紹介文にに堂々とほざいておいてなんという優柔不断さだ。

あゝ、感情なんてなければいいのに。何が自分にとって利点で何が無駄なのかと判断して生きていけたらいいのに、中学時代に刹那に思った思いを思い出す。

でもアーティストとしての生き方を見つけてしまった以上、そんな感情のない生き方なんてできやしないのだ。
そんなの、

死も同然だ。

私はナルトを見るのが好きだ。
忍者とアクションが好きなのもあるし、何よりも普段の生活で言ったら潮が引いていくように周りから引かれそうな己の真の熱血系な言葉をナルトはバンバンいってくれるし、カカシ先生の過去から学ぶ姿はまじ心に響くし、サスケの仲間と愛への断ち切りも同情するところがあるし。
なんとなく、ナルトのがむしゃらぶり成長ぶり不器用さが、勝手ながらにも自分にも重ねてしまうのだ。

日本を出てNYCに来た時、次に日本に帰ったときは
「ナルトファンがナルト疾風伝の初回放送を楽しみにしていた時のように」
「ナルトの仲間たちが自来也と修行して成長したナルトを見ているように」
そんな感じで帰りたいと本気で思った、願った、想像した。

今NYCを去り、日本に活動拠点を移すか、気持ちの整理をつけつつモヤモヤしている。

ナルトが成長して里に帰って来た時ほど、ナルトほど、成長してはいない。個性はますます癖強くなった。いいことだ。

でも視点を変えるならば、今NYCを去って日本に帰る自分へ言い聞かせとして。
NYCでできた仲間や師匠たちに対して「ナルトの仲間たちが自来也と修行して成長したナルトを見ているように」
原点に戻って日本に戻って「修行」をするつもりでNYCをさればもっと自分の気のいいように帰れるのかもしれない。

「俺が知りてーのは楽な道のりじゃねえ。険しい道の歩きかただ」
おっしゃる通りですよ、ナルトさん。

ナルトを見ながら描いたこの文は思った以上に素直に思ったことがかけた。友達は言う。「選択をした後に自分がその選択を良きものだったと言えるように頑張れば良い」のだと。

ナルトの忍道は「言ったことはまげねぇ。」だそう。

選択とはそれなりの勇気と判断を伴う。時には不安や疑いや優柔不断さが己の敵となる。もしかしたら、ナルトが誰よりも成長したのには変な計算しないで言ったことに対して必ず有言実行して誰が何を言おうとも自分を信じて貫き通したからこそなのかもしれない。
その一途でがむしゃらな姿が仲間を促し、仲間を断ち切った友を取り戻し、夢を叶えることができたのかもしれない。

ナルトのような自分。
ナルトのようになりたい自分。

ナルトを見ながら
自己啓発を試みる自分。

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