KOMADという場所について

はじめに

東大駒場キャンパスの近くに、KOMADというコラーニングスペースがある。

KOMADとはどういう場所なのか?なぜ、KOMADができたのか?については、以下の記事をぜひ読んで欲しい。

ざっくりまとめると、株式会社リツアンSTCという会社のオフィスの一部(というかほぼ全部)を、「真剣に学ぶ学生」のために開放したスペースである。KOMADとは、「コマバ(駒場)のノマドのためのコラーニングスペース」の略称だ。

さて、今回KOMADについて僕が文章を認めようと思った経緯は、改めて考えると、KOMADってすごい場所なんじゃね?ということに気づき、改めて、KOMADという場所の素晴らしさについて言語化してみたいと感じたからである。

(僕のnoteはだいたいそうだが)あまり読者の存在を想定していないので、読みにくかったらすみません。

僕とKOMAD

(僕とロボコみたいな語感の見出しになっちゃった)

僕が初めてKOMADに訪れたのは、たぶん学部2年生の秋くらいだったと思う。KOMADで行われているバーベキュー会があって、そこに参加したのがたぶん初めてのKOMAD。もうあんまり覚えてない。

そこから、3年生の春くらいにKOMADの鍵(鍵については後述)を持つようになって、3年の春~夏はほぼ毎週一回は通っていた。このときは授業後の懇談のために利用させてもらっていた。

その後、夏以降はみかん愛好会の方でもKOMADを利用する機会がぼちぼち増え、KOMADを通して、DICEやみかん愛好会以外のいろんな団体の人と関わることができた。特に、IMOPROJECTという芋を愛する人々の団体とは、1月に芋とみかんの交流会を行い、それをきっかけにかなり団体間の交流が深まったように思う。
そして、4年となった今は個人としてもKOMADに訪れる機会増えている。

キャンパスは本郷に移ったが、引っ越しておらず駒場の方が近いので、そういう縁?もあって駒場生ではないがKOMADにはお世話になっている。

KOMADのすごいところ

お前とKOMADの関係なんてどうでもいいんだよ!という声が聞こえてきそうなので、本題の、KOMADのすごいところとか、KOMADの好きなところについて書いてみる。全然MECEじゃないと思うけど許してください。

人の多様性

KOMADには、いろんな人がいる。みかん、芋、珈琲、紅茶、中国茶など、飲食系の人がやや多い気もするが、DICE、iGEM、瀧本ゼミ、FOS、すずかんゼミなどの学術系の団体の人も多い。「どんなことされてる団体なんですか〜?」などと尋ねてみると、いろいろ喋ってくれる。それまで初対面だったにもかかわらず、ひとたび会話が始まると、自分にとって新鮮な知識がたくさん舞い込んでくる。逆に、自分の団体や趣味、考えていることについて喋ると、真剣に聞いてくれる。そういった、会話にオープンで、ある種の心理的安全性が担保されているコミュニティは貴重だと感じる。

KOMAD会議という場

そしてなによりも、このコミュニティの最もすごい点は「代表がいない」ことにあると考えている。代表がいないということは、ある種「直接民主主義」的なコミュニティであると言い換えることができるかもしれない。

KOMADに関わるあらゆることは、「KOMAD会議」を通して決定される。KOMAD会議とは、誰でも参加可能な週に一回のペースで開かれる議会のようなもので、その場で鍵の発行や、さまざまな議題に対して決定がなされる。とはいえ、国会のような堅い場ではなく、自己紹介をしたり一緒に食事をとったりしてKOMAD会議参加者同士で仲良くなろう、という場でもある。

boardという肩書きを持った学生も何人かいるが、彼らが特別な権利を持っているわけではなく、あくまで便宜上の肩書きであり、「KOMAD会議によく出席する人」とか「KOMADによくいて、KOMADについて詳しい人」とか、「リツアンの社員さんとのやりとりを担う人」とか、それくらいの意味である。

この形の、代表を置かない自治の方法はとても稀有で、極めて高度なものだと感じる。なぜなら、直接民主主義および会議のみを主体として意思決定を行うことによってさまざまなトラブルが生じることが容易に想像できるからである。それによって割を食うのはよくKOMADにいる人、KOMAD会議にてMPを消費して議論を促進する人、すなわちほぼboardのメンバーである。

代表を置けば、それはそれでトラブルは発生するかもしれないが、意思決定や責任の所在という意味では極めてシンプルにことが進むと考えられるし、実際に多くの学生団体は代表やそれに近い肩書きを持った人が仕切っている。

ではなぜKOMADには代表がいないのか(そして、代表を置こうとしないのか)?

KOMADに代表がいないこと

実は、KOMADに代表がいないという、それ自体がKOMADの素晴らしさを物語っているのではないかと僕は考えている。逆に言えば、KOMADがその素晴らしさを保つ上で、代表がいないことが重要で、KOMADは代表という存在を求めていないのではないか、と考えることもできるかもしれない。

代表がいないということは、直接民主主義と強く結びついている。そして、KOMADが直接民主主義の自治形態でうまくまわっているのは、直接民主主義が持つ問題点を、KOMADコミュニティは部分的に乗り越えていると言えるのではないか。

直接民主主義が持つ問題点は、「時間とコスト」「複雑な問題の単純化」「専門知識の不足」「長期的視点の欠如」などが挙げられるだろう(この分野にあまり詳しくないので、補足などあればご意見いただきたい)。

つまり、KOMADコミュニティに存在する一人一人(特にboardの方々)が、時間やコストを惜しまず、複雑な問題を過度に単純化することなく、常に学びの姿勢を持ち、多角的な視点でKOMAD会議の議論に取り組んでいることによって、KOMADの直接民主主義が成り立っていると言える。

これってすごくないですか???

性善説でまわっている

さらに付け加えて言うならば、KOMADは基本性善説でまわっている。そもそも会社のオフィスというセキュリティが最も重視される場所を、不特定多数の学生が自由に出入りできるコラーニングスペースとして解放されているリツアンさんが、性善説的な考え方をされていると思う。

また、KOMADには、「ルールがない」。帰る前には、来た時よりも綺麗にして帰るとか、ゴミがたまったら縛ってまとめておくとか、鍵の発行には異なる2団体の推薦人が必要であるとか、「ルールっぽいもの」は存在している。

しかし、これらは、厳密には「ルールではない」と僕は解釈している。なぜなら、いきすぎたルール違反には鍵の没収やKOMAD出禁などの対処が取られることはあるが、基本的にこれらのルールに抵触しても怒られることは滅多にないからだ。

要するに、「ルールではなくて、マナー」なのである。

これがすごい。ゴミを捨てなくても、片付けなくても、罰せられないのであればKOMADはすぐゴミ屋敷になってもおかしくない。でも、現状そうはなっていない。この、マナーやモラルの上に成り立つコミュニティの維持の仕組みを、「性善説でまわっている」と表現している。

世の中に、性善説でまわっているこれほど大規模なコミュニティが一体いくつあるだろうか。

つまり、大袈裟にいうならば、「KOMADのコミュニティメンバーである」ことが、「その人間が性善説のコミュニティで生きていくことができる」ことの証明になってしまうかもしれないのだ。

これってすごくないですか????

最後に

深夜のノリでつらつら書きましたが、要するにKOMADってすごいコミュニティだし、KOMAD大好きだぜ〜〜みたいな話でした。

とはいえ、僕が真剣に?KOMADと関わるようになってから1年とかそれくらいなので、僕も全然KOMADについてわかっているわけではないし、全然見当違いなことを言っていたりするかもしれませんが、その辺はご愛嬌ということで許してください。

偉そうにいろいろ言っていますが、KOMADについてあまり詳しくなかった時に、なんどがやらかしたこともあったりしますが、それも含めていまKOMADは僕を受け入れてくれているような感覚があります。当時迷惑をかけてしまった方はすみません。

さて、もう本郷の民であるにもかかわらずまだKOMADおよび駒場にしがみついている僕ですが、今後もまだまだKOMADにはお世話になると思います。この記事を読んで、KOMADに興味を持った方がもしいれば、ぜひ一緒にKOMADに行きましょう!

また、こういったコミュニティ大好き人間としては、Lab-Cafeについても語らずにはいられないので、いつかLab-Cafeについても思うところをいろいろ書いてみようと思います。

それではまた。


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