年忌法要が本来の仏教寺院の役割を忘れさせているのではないか

今の仏教寺院で行われている法要のシステムは、どうも本来の仏教の道(仏道)を閉ざすことになっているのではないかと思っている。
人々は、年忌法要を行うことを主軸として寺院とつながる。寺院は
年忌法要や、記念法要(宗祖の生誕、年忌など)を行うことで、外側から見た基本体裁を整えている。経済的にも寺院を支えている。
両方の利得が一致しているわけだ。人々は、年忌法要を行うことで、なんらかの安心感を得て終了し、それ以上はない。(完全にないわけではないが)
また、本来は一緒に仏道を歩むための拠点としての寺院だが、年忌法要と記念法要だけでは、到底伝えることはできない。

自分の寺院で積極的にやってないのに、お前が言うなということになるのだが、こういう思いがあるので書き留めておく。

年忌法要は宗派や寺院によって異なるだろうが、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、三十三回忌、五十回忌が多いだろうか。
約50年の間に8回しかない。
一つの家に亡くなられた方は何人かいらっしゃるから、もう少し増えるかもしれない。それは家庭事情によるだろうけどせいぜい50年に20回くらいだろう。
さらに、法要の内容としては、これも宗派毎に違うだろうが、まあだいたい50分として、儀式読経が30分~40分、仏教にまつわるお話が20分~10分だ。
ということは、仏教のお話を聞くことができる時間は50年の間に20分×20回=400分=6時間40分となる。(アバウトな仮定の元での計算だから、この数字は適当でしかないが)
6時間40分として、その間にどれだけ仏教のことを伝えることができるだろうか。また、この時間に比較して、50年間にテレビ、新聞、雑誌、インターネットに触れる時間はどれくらいだろうか。今は、テレビ、新聞、雑誌がインターネットに移行しつつある。ということは、法要儀式で仏教に触れる時間は相対的にあまりにも少ないわけだ。

これでは仏道の智慧を知ることなんてできるわけはない。
実はこれは仏教に限ったことではない。筆者が特に興味を持っている心理学の情報については、もっとひどいことになる。心理学には法要という仕組みがないために、積極的に知らなければ知ることはできない。

明治維新で寺請制度に基づく檀家制度は無くなったが、その仕組みのメンバーシップ制度はいまだに生きている。驚くのは、檀家から出るにはいまだに離檀布施などを要求するお寺が存在することだ。
その檀家制度は、前述の年忌法要制度に関連しているため、かろうじて50年間で6時間40分(あくまでここでの仮定ですよ)は仏教のお話を聞くことができる。そういう意味では前向きに考えてそれだけの時間は仏教に触れる時間があるというふうにも考えることができる。

問題は、年忌法要が儀式読経に多くの時間を費やしてしまうことと、生涯で仏教に触れる機会があまりにも少ないということだ。

日本の教育システムでは、そういう「道」的なものは教えない。倫理社会や道徳でほんの少し教える程度だ。生きるための智慧よりも、社会システムで役立つための知識を重点的に教えるシステムになっている。
知識は、たしかに業務をこなすことには役に立つだが、その業務をこなすための様々な問題解決や人間理解の不備による人間関係の問題解決には全く役にたたない。
そこに、もう少し仏道の智慧があれば、精神科医のお世話になることも少なくなるのではないかと思う。また、精神的問題は身体にも大いに影響を与えるため、身体医(精神科医と対応して総合してそう呼ばせていただく)の世話になる頻度も少なくなる。

コロナウイルス問題が起きてから、さまざまな僧侶や寺院、仏教学者の方が動画で仏教の智慧を配信するようになったため、以前のように法要機会だけが仏教のお話を聞く場ではなくなってきている。また、コロナウイルス問題により法要機会が閉ざされたお寺が単なる法要だけの活動からそうではない活動に切り替えているケースも増えてきているように思われる。

これを機会に年忌法要中心の寺院から本来の活動に立ち戻るためにも、年忌法要の機会を減らし、仏教道場としての寺院に変革していくと良いと思っている。ただ、当寺のように経済的に貧困に陥っていく可能性は大いにあり、その過程で廃寺になっていく寺院も多く出るだろう。いわゆる檀家、門徒が少ない寺院はそうなる傾向が強い。
しかし、どこかで寺院(僧侶)、檀家、門徒の人々の意識が変わらなければ、だらだらといままでの関係性と経済システムが続いていくのではないだろうか。
寺院を維持するためには、なんらかの経済システムは必要だ。それを踏まえた上で、儀式法要中心から仏道修行中心に移行していかねばならないと思う。
また、もう一つ、いくら大きなお金をかけて、大きなお金をすいあげて、本山主体で大きな法要を定期的にやったとしても、どれだけの人々が仏道の智慧に触れることができるか不明である。人集めは既存檀家、門徒の布施に頼っている。集団で本山の大きな法要に参加させることだけで、いったいどれだけ人々に仏道の智慧を伝えることができているのだろう。
神社のお守りではないが、そのお守りの効果を統計的に計測されて販売されているわけではないが、なんとなく買って、人々は安堵を得ている。そういう感覚と似ているようにも思う。
むしろ本山システムをもっと縮小して、大きな法要は不要だから、そういう仏道の智慧を伝える場を整備することに注力してはどうかと思う。

巨大船舶の舵を切って、船の方向を変えるのに相当時間がかかるのと同じように、仏教の巨大システムはその方向を変えるのには相当時間を要するだろう。
まずは、寺院に所属する僧侶の意識を変えることが最も大切ではないかと思う。そして、その意識を徐々に現実化すれば、数十年でかわるのではないか。変革の間には、檀家、門徒からの反発もあるかもしれない。
「うちの住職は頭がおかしくなった」などとささやかれることもあるだろう。そういう意味でいきなり舵を切りすぎると、軋轢が多く挫折する可能性もあるだろうから、舵もゆっくりと切らないといけない。

文章の中で「仏教」「仏道」を両方使っていますが、「仏道」を歩むための情報が「仏教」であると考えています。僕の中でもその使い方が曖昧で、混在してます。




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