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服喪とは何か―不思議な体験をした

「ああ今日、母の喪が明けた日だ」と思いながら、出勤の途上で父永眠の知らせが届く(令和6年4月23日)。

その日は、母が亡くなってから、ちょうど25か月が過ぎた日だった。

◆3年喪に服するということ

「論語」に喪に服する期間について孔子と弟子がやり取りする場面がある。
「宰我問う、三年の喪は、期にして已(すでに)に久し」
宰我という孔子の弟子があるとき3年の喪は少し長いのではないかと師に問う。

今では、「喪中はがき」などという形骸化した姿で、わずかに日本文化に遺るだけ。

私は、母が永眠(令和4年3月22日)してから「喪とは何か」と問い続けていた。その間、3年とは25か月という説に出会う。そう思いながら25か月過ごし、私は日本文化に形だけ残る喪とは何かを考え、密かに心中で喪に服してきた(とはいえ身を慎むとは程遠い日々ではあったが…)。

自ら体験でき、真に心境を理解できる稀なる機会と考えたからに他ならない。

部屋を出ていく宰我。残った弟子に孔子は語りだす。

宰(さい)我出(がい)ず。子(し)日(のたま)わく、予(よ)の不仁(ふじん)なるや。子生(こうま)まれて三年(さんねん)、然(しか)る後(のち)に父母(ふぼ)の懐(ふところ)を免(まぬ)がる。夫(そ)れ三年(さんねん)の喪(も)は天下(てんか)の通(つう)喪(も)なり。予(よ)や、三年(さんねん)の愛(あい)其(そ)の父母(ふぼ)に有(あ)るか。
 
「3年にこだわる理由をみなに教えよう。親は子が生まれると、親の懐の中で大切に育てられる。ようやく子が親の懐から離れていくには3年を要する。親が懐で大事に育ててくれたその3年間を思えば、その恩をありがたく感じ取り、その恩を真に知り、恩に報いることを誓うのに3年は必要と考えるからだ」(佐藤等超訳)

 宮城谷昌光先生の小説『晏子』に主人公の晏嬰が大臣を経験した父の死に接し、3年喪に服する場面が描写されています。命がけの壮絶な行為であることがわかります。

「晏嬰は、苴(あさ)の絰(てつ)を首にかけ、苴の帯をしめていた。はきものは菅履(かんく「履」は旧字体で表記)と呼ばれる菅(すげ)の草履であり、竹の杖が身近におかれてあった。粥しか食べないので、自力では起きあがれなくなり、杖のたすけがいるからである」
 
宮城谷昌光先生は、古代の人々は、王も臣下も、たぶん晏嬰が行ったと同じような服喪の形態をとったのであろうと記しています。小説『晏子』は、孔子(紀元前552—479年)が生きた時代(春秋時代)と重なり、晏子は「論語」の中にその名が記されています(公冶長第五)。
 
晏嬰が行った様な形態の服喪は、春秋時代の当時、すでに古代の習慣とみなされており、その姿は斉の国の評判になり、その後、国政に取り立てられ、重責を担うようになります。
 
形骸化したとはいえ、このような古い慣習が現代日本に保存されているのは、驚嘆すべきことです。姿かたちを変えても残っているからには、何らかの意味があると考えるのが至当です。
 

◆「服喪とは何か」

私なりに、その意味は何かと25か月間考え続け、結局、超訳として示したように「その恩をありがたく感じ取り、その恩を真に知り、恩に報いることを誓う」という孔子先生の教えの深さを実感することになるのです。
 
孔子が高弟曾子に「孝」について説いた書に『孝経』があります。
 
その一節です。
 
「孝は徳の本なり、教えの由りて生ずる所なり」
 
仏教より早く日本に儒教が日本に伝わって以来(5世紀頃)、徳を積むことを大切にしてきた国、日本において<服喪-孝-徳>という連環の中で服喪は慣習として遺ったといえます。

2018年、小学校で「道徳」の授業が教科化されました。徳の本である孝をどのように位置づけているのでしょうか。平成29年に告示された学習指導要領には「主として集団や社会との関わりに関すること」があり、その一項目に「家族愛, 家庭生活の充実」が挙げられています。概要にあるのは「父母,祖父母を敬愛し」という文言であり、そこに「恩」という中核的なキーワードを探すことができません。
 
2500年以上の歴史をもち、形骸化しつつも遺る服喪という慣習。現代に遺った意味は何か。形骸に少しでも実を吹き込むことはできないものかと25か月を経た今、思うところ大です。

◆『「孝経」人生をひらく心得』

この間、実家に持ち込んで何度も目をとおした書籍があります。伊與田覺先生の『「孝経」人生をひらく心得』(致知出版社)です。

致知出版社のホームページにその一説が現代訳とともに紹介されています。
https://www.chichi.co.jp/info/anthropology/history_classics/2018/%E5%AD%9D%E7%B5%8C/

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)、之を父母に受く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり
(私たちのこの体は髪の毛、皮膚に至るまで父母からいただいたものである。傷つけないように、大切に生きることが親孝行の始めである)

身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、以って父母を顕(あら)わすは、孝の終わりなり
(後世の人にたたえられるような立派な人生を送り、どこの子だと言われるような立派な人になってこそ、孝行が終わったといえる)

夫(そ)れ孝は、親に事(つか)うるに始まり、君に事うるに中(ちゅう)し、身を立つるに終る
(孝行とは、まず親に仕えることから始まり、君に仕えることを経て、人格を次第に完成していき、年をとるほど立派な人物になって天寿を全うしたところで終わるものなのだ)

親に事(つか)うる者は、上に居りて驕(おご)らず、下となりて乱れず、醜(しゅう)に在りて争わず
(親を大切にする人は、上司となっても部下を見下さないし、部下としては上司によく仕え、同僚に対して争いをしかけることもない)

君子の上に事(つか)うるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過(あやま)ちを補わんことを思う
(君子が上の者に仕えるときは、与えられた職責を忠実に果たしながら、上の者に過ちがあればそれを補うように努めるのである)

母にはその愛を取りて、君にその敬を取る。これを兼ぬる者は父なり
(母には愛をもって仕え、主君には敬をもって仕える。この双方を兼ねるのが父であるから、父によく接するとは愛敬を尽くすことである)

孝を以て君に事(つか)うれば則(すなわ)ち忠、敬を以て長(ちょう)に事うれば則ち順。忠順失わず、以てその上(かみ)に事う
(孝の心で君に仕えれば、それは忠になり、敬いの心で長上に仕えれば、それは順になる。この忠と順を忘れることなく上に仕えなくてはいけない)
 
『孝経』は、父母亡き後も孝道は続くことを教えています。
 

◆心中の服喪

また致知出版社のホームページには、「日本では、七五七(天平宝字元)年に孝謙天皇が「日本国民たるものは家々に『孝経』一本を蔵して誦習せよ」との詔を発し、日本において広く親しまれる経書となった」とあります。
 
「明治という時代の特質は、古い日本が持っていた潜在的な能力をうまく引き出したことです」
 
ドラッカー教授の言葉です。2500年以上にわたり保存されてきた服喪という日本人の経験から引き出せるものはないか。私は「服喪」という古い慣習の中に、その能力の一端を垣間見ました。
 
古代中国の過酷な服喪の姿も「孝」という徳目を骨髄に染み込ませる智慧だったのでしょう。親があって自分がある。人類始まって以来の親子の関係の連続で今ここに居ると考えれば、一人ひとりは奇跡的な存在であることを実感せずにはいられません。その原点に焦点を当てる一つの機会が服喪であること身をもって体感することになりました。
 
父の永眠によって私の心中の服喪はさらに25か月続きます。82歳の父に「自分史」を記入するためのノートを渡したことがあります。はじめは抵抗感があったようですが、「私たち兄妹と孫たちの役に立てばと」と前置きしつつ、一〇年かけて人生の喜怒哀楽を綴っられていました。

父の通夜に次男が発見し涙を流しながら読んでおり、翌朝、初めて私も目を通しました。
 
そこには、5歳で父を亡くし、親戚にそのことを告げにお使いに行った日の記憶が短く綴られていました。15歳で職に就き、家を支え、50年きっちり働き終えた日のことを喜びと共に書かれていました。容易な人生ではなかったであろうことが伝わってきます。
 
記録は令和になる年で終わっていました。その年の元旦の記録には私たち兄妹の二家族十一名が集まった様子を「これが日本の家族」と記し、喜びとともに筆はおかれていました。

今年(令和6年)の正月には、ひ孫と初対面を果たして春に逝きました。恩送り(おんくり)は、これからも続きます。
 
徳の本に孝があり、服喪という形で父母の恩を教え、「喪」という言葉を大切に保存してきたわが日本。形骸化したとはいえ、何かの実(じつ)を教える契機とならないものかと考えるばかりです。


 


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