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優しさを恥ずかしがらずに表現できる仕事〜落ちこぼれにもできること

目次

  1. 「福祉」との出会い

  2. 落ちこぼれの「福祉のようなもの」への憧憬

  3. #この仕事を選んだわけ

  4. 結局福祉バカが天職

 
1.「福祉」との出会い

 24時間テレビがスタートしたのは、僕がまだ小学校5年、11歳の夏だった。「福祉」という言葉はもちろん、栄養失調や貧困や障害者たちがこの世に存在していることも知らなかった。
     画面の中に、汚れて痩せこけた裸の子供たちが映し出される。お腹だけが異様に膨らんでいて、その顔には無数のハエがたかり、茶色い水を飲み、泣き叫んでいる。
 戦争で地雷を踏み、手足を無くした子供たちや大人たちの姿、薬害や環境汚染により、身体や顔が変形していたり、生まれながらに何らかの障害を持ち、不自由な体を引きずりながら生活している姿が…。そのテレビは僕の知らない世界を流し続けて、僕は親に呆れ顔されながらも眠い目をこすりながら、何時間も見続けた記憶がある。
 それがもしかしたら僕と「福祉」の出会いだったかもしれない。少し安っぽいきっかけだ。
 僕の知る限りでは、家族や、親類に、障害者と呼ばれている人はひとりとして居らず、高齢者とも過ごした経験のない僕には「呆け」や「介護」の意味もわからなかった。対岸の火事、いや、むしろ全く意識の外の話であった。
 それなのに僕は何故かそのテレビに映し出されるその場面ひとつひとつに引き込まれ、毎年夜中まで、そのテレビを見続けることになる。

2.落ちこぼれの「福祉のようなもの」への憧憬

 中学生になっても、相変わらず僕は24時間テレビにかじりついていたものの、その番組が「福祉」ということをテーマに作られているということも依然理解しておらず、そもそも「福祉」という言葉をまだ知らなかったと思う。まだまだ当時の社会には、高度成長期の最中、高齢者施設は姥捨山の如くに収容された高齢者たちが劣悪な閉鎖的な環境の中で生きるとなく生かされ、精神障害や知的障害はキチガイ扱いされ、世の光に照らされることのないまま人格を捨てざるを得ない、そんな闇が存在していた。
 そのテレビカメラが「福祉」を捉え、社会に放映したことで、僕はとても漠然とした「福祉」に興味を覚えたのだろうか、虐められていた女子にこっそり優しく声をかけてみたり、卒業式の前日の放課後、ひとりで教室を大掃除したりした。僕の当時の「福祉活動」はその程度だった。

 高校生になり、僕は見事に落ちこぼれた。約400人の同学年の中で、380番前後がいつも僕のテストの成績の指定席だった。
 隣に座る憧れの女子に、「この問題教えて」なんて声かけてもらっても、当然答えられるはずもなく、高校3年間、恋も諦めた。
 成績はまったく伸びなかった。指定席はそのままの場所にあった。それでも進路を決めなければならないとき、僕は迷わず、「福祉」の道を選んだ。ただ、このときでさえ、福祉のことは英語で、social welfareという、くらいのことを知っただけで、何もわかってはいなかった。
親や親戚でさえ、街頭募金や戸別訪問で「恵まれない人に愛の手を」と呼びかけてお金を集めるのが「福祉」(それも立派で真当な福祉だが、当時はやや蔑んだ風潮があった)だというイメージくらいしかなかった。僕はどうか。もうすでに眺める程度にしか観ることがなくなっていた24時間テレビで、やはり「困っている人たち」を助ける「福祉のようなもの」をしている大人たちに憧れていただけのぼやけた高校生だった。その大人たちがどんな職業についているのか、どんな仕組みで、どんな制度で働いているのかなどまったく関心もなく、それどころか自分が働くイメージなど微塵も持ち合わせていなかったのだ。

3.♯この仕事を選んだわけ

 こんな落ちこぼれにできる仕事なんかあるのか…。それが進路を決めるきっかけのかなり自虐的な疑問だった。
 県内屈指の進学校だった新設高校の先生たちに課せられた使命は、東京の名高い大学に、生徒たちを何名合格させるか、ということだった。その対象リストにかすりもしない僕は、当時、偏差値ランキングから大きく下位にはみ出した福祉系の大学をいくつか見つけることができた。しかもその中に、福祉の前に「日本」とついている大学もあった。
 「こういう場所なら、僕みたいなアホでも、優しい気持ちを恥ずかしがらずに出せる仕事が見つけられるかもしれない…」
 そう思った。そこしか僕の進む道はないと感じた。見栄を張って、身の丈に合わない大学も受けたが、結果は「日本」とつく福祉系大学だけが、僕を合格させてくれた。
 大学でボランティア活動を始めた僕は、知的障害(当時は、精神薄弱と呼ばれていた)を持つ仲間たちと出会った。彼らと暮らしの一部を共有しながら、彼らが僕らと同じ体験や社会生活をしづらい環境にあることを知った。
 例えば、エレベーターのボタンは誰かに押してもらうのが当たり前になっているので、エレベーターの前に立っても、ボタンを押せなかったり、喫茶店を知らなかったり、映画を見たことがなかったり、恋を知らなかったり…。
 さらに知的障害者施設に実習に行って見た風景は凄まじかった。耳を齧られて耳たぶあたりが欠損しているスタッフがいたかと思うと、皮膚ごと髪を抜かれて入院中のスタッフもいた。ややたじろいだが、僕が見た中で一番怖いと思ったのは、スタッフの思い通りに動かない入居者に、怒鳴りながらボールをぶつけたり、女性スタッフが飛び蹴りして、力づくで押さえつけようとしている場面だった。こうでもしないと何されるかわからないから、と、とある女性スタッフは平然と実習生に話した。
 当時とは人権意識も変化し、制度も変わっているので、まさかいまも反則技が飛び交うケアは行われていないはずだ。
 特別養護老人ホームへ実習に行ったときは寝たきり老人の集団に一斉オムツ交換するのが当たり前の業務だったし、自立支援やQOLなどという概念はほとんどなく、食堂で伏せって過ごすか、独りぼっちで椅子に座らされているか、その周辺で、排泄物の匂いと奇声が絡み合い、うつろな目をして徘徊している高齢者が黙々と行ったり来たりしていた。何人ものスタッフがすれ違うのに、声もかけられず。
 そこに人の暮らしの風景はなかった。青二才の世間知らずの学生にさえ、ただの違和感しか感じず、なんとも表現し難い不快感と頼りない正義感を抱いた。
 そんな風景は、あのテレビと重なった。僕はやはり福祉の道に進む意思を固めた。優しい気持ちを恥ずかしがらずに表現できる舞台。学校の成績が伸びなかった落ちこぼれ。グレる勇気もなく、開き直る勇気もなかった自分のらしさを堂々とカタチに出来る場所。

4.結局、福祉バカが天職

 福祉の道を歩み始めてから37年になる福祉バカ。出会った障害者や高齢者の方々、その家族、関係者、そんな方々から「福祉」とはなんぞや、を教えていただいている。まだまだ、理解していないのかもしれない。11歳の頃よりは言葉の意味がわかりかけているかもしれないけれど、この仕事を天職だと感じている。
 先天性であれ、中途であれ、障害はあれど人としての価値があり、100年の人生を歩んできた方々は、認知症があろうが、寝たきりだろうが、その人生は尊い。
 明日、死んでしまう方々に、今、何ができるのか、毎日考えながら、仕事をしている。
 そんな自分らしい表現ができるフィールドを探して、職場や役職はいくつも変わったが、福祉の道から外れることなく、歩いてきた。僕は、自分をカタチにしたい。高齢者施設を姥捨て山ではなく、家庭や自宅の延長線上にある暮らしの場にしたい。
 恥ずかしがらずに自分の思いを表現でき、カタチにできる場所をつくる。落ちこぼれた僕の社会貢献活動。
 いつかあのテレビで紹介されるようになったら、落ちこぼれもちょっと自信がついた顔をしているかもしれない。

おしまい
 

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