少林サッカーが恐くて見れない

トラウマとは厄介なもので小さい頃に恐いと思ったものは大人になっても恐い。ピーマンは食べれるようになったのにジェットコースターもある程度なら乗れるようになったのにブラックコーヒーも飲めるようになったのに少林サッカーは観れるようにならない。コーヒーに関してはカフェイン酔いをすぐに起こしてしまう体質なのだがそれすら楽しめて毎日飲んでいる。そもそもなぜ俺は嫌いな物と恐い物を比べようとしているのか、、と一瞬考えたが恐い=嫌いではない事に気が付いてハッと出来たので良しとしよう。

 俺は映画少林サッカーが恐くて見れない。映画を簡潔に説明すると少林拳の達人達がサッカーをやって廃れた生活から逆転するという作品だ。俺が小学校低学年くらいにあれを確かDVDを借りて見た(正確には見ようとしたが途中でリタイアした)のだが映画館に行かなくて本当に良かったと今でも思い続けている。退路を断たれた俺の心はあの轟音と大きな映写幕によってズタズタにされていただろう。超人的な動きだとかパワーだとかそういうのはものすごく好きだ。だけれどあの独特の恥のかき方とかえげつない程の侮辱のされ方やズルのやり方が恐くて仕方がない。罵声を浴びせられビール瓶やスパナで頭を叩かれたり、対戦相手の履いているブリーフを頭にかぶって土下座したり、書いているだけで俺の眉間がギュッとなってしまう。痛そうで恐いとかそういう事では無くて、過剰な侮辱や恥をかかせられる事にとてつもない恐怖感を覚えてしまうのだ。この気持ちが分かる同志はいるだろうか、未だ少林サッカーの恐怖感を誰かと共有出来たことは無い。

 いじるのと馬鹿にするというのは紙一重だが受け取る側や第三者からすればそれは天と地の差がある。いつだったか、大阪で沢山のバンドが出てたライブの打ち上げがあった。人数が多かったため好きな居酒屋に適当に行くみたいな打ち上げだった。俺も居酒屋をちょこちょこ変えて仲の良い人たちと飲み歩いていたのだが、ある店でたまたま近くの席のサラリーマン風の男性3人に話しかけられた。「お兄ちゃんバンドやってるの?へえパートは?」「ボーカルです」と酔っ払って俺は陽気に答えたが一瞬ニヤッとしたその顔を見逃さなかった。「ああそうなんだぁ、ちなみにこの人ねぇギターの先生やってるんだよね」一人の男性が向かいの男性に指を刺しながら俺に言った。君は音楽で食べていけてないでしょ?この人は食べていけてるんだよ凄いでしょ?ってな顔で俺を見た。指差された男性もまんざらでも無い感じでやめろよ〜といった感じであった。

「食べれてますよ。幕張でワンマンもしました。お兄さんしたことありますか?」

なんて堂々とすぐに言えたら爽快な展開だろう。しかし俺の頭の中には少林サッカーの”あの嫌な感じ”がよぎって「へー」と言うので精一杯だった。居酒屋で遭遇したしがないバンドマンにマウントを取ろうと深い紫色のような黒色のような煙が充満していた。もちろん眉間はギュッとなっていた。自分の武器はもちろんハルカミライというバンドで、すごく自信があるしただ堂々としていればいい。だがこの人たちにマウントを取るためにバンドをやってきたわけではない。そう思うとマウントを取ろうと躍起になる人のことも言い返さない自分の情けなさも全てがくだらなくなった。「トイレ行ってきますー」と言ってすぐに店を出た。一瞬先輩に愚痴ってみようとも思ったが誰かに慰めを貰うことすら違うなと思い一人さっさとホテルに戻った。

 今のところ音楽だけで食べていけてない俺より若いバンドマンに俺は特に聞いて欲しい事があって、音楽は耳を傾けてくれる人にだけ向ける優しい武器であるという事と、自慢する事と威張る事は違うという事だ。そして話は戻るが恐くて映画は見れないけれど俺にとって重要な感覚を突きつけてくれたあの映画の事が俺は嫌いじゃない。