向いていないことに気づくためには
大学生のときに大手書店で半年ほどアルバイトしていた頃がありますが、睡眠時間をギリギリまで削って仕事していた新卒しばらくの時期よりも圧倒的に苦しかったことを覚えています。労働がきつかった。いいえ。普通の職場でした。むしろ、人によってはめちゃくちゃ楽な職場だったと思います。本の知識があったので、どこに何があるのかとかそういうことには苦労しなかった覚えさえあります。
では、なぜしんどかったかというと、普通の小売のオペレーションであるレジ打ちです。単純な手順を、一定の丁寧さとスピードで進める、これがほんとうにできませんでした。まず、スピードが安定しない。そして、決まった動きを体が覚えてくれない。客が来るたびにドキッとして、なんとかやり過ごし、また、客が来るときにドキッとしてなんとかやり過ごす。
作業密度にはムラがあるし、スピードも遅れるので、先輩社員には厳しい目を向けられるし、ほんとうに最悪でした。しかし、最悪だったからこそ、自分は決してこういう素早く丁寧に定形作業をこなす仕事を生業にしてはいけないという教訓が得られました。
しばらくはリアルの本屋に行きたくなるなるほど、きつい体験でした。その一方で、試さなくてはいけないことだったといまでは強く思います。もしも向いていないことに、もっと時間が経ってから、逃れられなくなってから接していたらと思うと、背筋が寒くなります。
創造性についての研究をまとめた本(いま手元にないのでここから書くことが不正確かもしれないことを先にお伝えしておきます)で、創造的なことをしようと思えば、当の分野を愛して多大なエネルギーを注がなければならないが、当の分野に愛されているかどうかは別だというある種当たり前のことが欠かれていたことを思い出します。まあ、私は愛することはできなかったし、愛のない仕事を半年ほどしたおかげで、愛されていないことは痛感できたわけですが。
それに比べると、小売店の収益シミュレーションをひたすら繰り返して、その数字に具体的なオペレーションの光景を当てはめて、どの状況なら採算がとれるかということを数字と自然言語で表現するという、ある種粘り強さがいる仕事は、圧倒的に楽しかったわけですが。こういう仕事をして精神を病む人もいるようなので、仕事というのはいかに自分のことを愛してくれる領域に出会えるかが勝負だよな、と心から思っています。
自分が比較的得意とする仕事でも最終的にその分野の第一人者にでもならなければ、ほんとうに自分のことを好いてもらえているかどうかはわからないものです。しかし、愛されていないことには明確に気づける。一般知能に問題はないのに、とにかくその分野の仕事ができないのだから。そのとき取りうる選択肢はひとつ、辞めて別の道を探すことです。私はこれしかないと思っている。
不向きだとわかったことに時間を使うことは美談でもなんでもなく時間の無駄です。自分が不向きなことに挑戦することは不向きだということを知るためにするのであって、克服や適応のためにするのではないのです。得意なことを探す方がよい。
自分のどこに弱点があるか、向いていないかに気づくためにはある程度一所懸命にやる必要があります。真剣にやらなければテストにならない。そして、テストは本番さながらでなければならない頭と体で、その投資採算性と見通しの悪さを体感すれば、何に手を出すのが良くないかということをよく理解できるはずです。
三日坊主では自分が不得意なことに気づけないでしょう。私はそう思います。かといって、本当に向いていないことを三年もやる必要があるのかといえばそれも違うでしょう。私の場合はバイトだったので、同じような仕事ばかりを集中的にやらされたこともあり、不得意を明確に認識できました。これが正社員であれば、仕事は広がっていくはずなので、少し幅広い仕事のなかから得意なものと不得意なものを見つけるところまでいけるかもしれません。そうなると、三年はやってみるべき、なのかもしれませんね。しかし、投資生産性の悪さを体感したならもうそこで努力する意味はないと思います。自分が得意なことにエネルギーを注がないとそれはそれでモノにはならないのですから。
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