本を読め、といって古典を勧められても困る
世の中にはとても賢い人たちがいるので、私には及びもつかない理由なのかもしれませんが「とにかく古典を読め」と言ってくる人がいるようです。これは「ビジネス書を読め」と言ってくる人よりははるかに知能が高そうに思われますし、実際そうなんでしょう。古典は長い時間をかけて生き残ってきたものだから、時間を超えた価値(価格、読む時間に見合った効果)が見込めるとの思いからかもしれません。
しかし、古典が古くに書かれたものであればあるほど、今の私たちの考えと前提が異なります。たとえば、道徳的価値観について優れた見識を発揮した過去の思索家がいるとしましょう。当然その著書も評価が高いわけですが、この人は今の私たちの中で古風と思われているタイプの人よりも、男女平等に賛成していない可能性があります。
これくらいであれば、価値観が違うのだな、ということで補正すれば済むかもしれませんが、書籍には論争的な性格のものが多く含まれており、当時の時代背景、当時の二流の論者(いまはもう評価されていない人たち)、当時の話題を集めていたトピックが背景情報として明示的に書かれていないことがあります。そのせいで、予備知識なしで古典を読んだところで、誰が誰のどの部分に対して何を言っていて、著者はそれに対してどのような立場をとっているのかということがわからない可能性があります。また、事実上無神論のような立場の人でも、神なんていない、と口にすれば危険な目にあったかもしれない時代においては、神がいるかのように偽装して書かれている可能性があります。
そうなったとき、古典の横にはそうした背景情報や、近年の有力な解釈について書かれた解説書が必要とは思いませんか。一次文献と格闘することで真の思考力が磨かれる、などという人がどれくらいいるのかわかりませんが、そうしたことをいう人がいたら無責任なので無視しましょう。格闘したところで勝てるかどうかなんて誰も保証してくれません。それゆえ、歴史上の古典的な文献に当たるうえでは、発行年数が比較的最近で、ちゃんとした学者によって書かれた二次文献を活用するのがむしろ正攻法です。日本語だとどれを読んでいいのかよくわからないときもありますが、本棚の前でいくつか手にとってみてよいものを探すか、いっそのこと、英語力に自信があるのであれば、英語圏ではこうした手引き(参考につけたリンクではJ.S.ミル)があるので、
活用してみるとよいかもしれません。もちろん、他の一流どころの人にも解説書があります。
こんなもの使ったら、古典を一冊読むのにものすごい時間がかかっちゃうじゃないか、と思われる方もいるかもしれません。その通りです。昔の本を、記念程度ではなく、ちゃんと教養を身につけるために読もうとするのであれば、かなり大きな時間投資が必要なのです。古典を読むのが大変面倒くさいというのはおわかりいただけると思います。
そのため、私は題名に書きました。古典を推奨されても困る、と。新書等では最先端で活躍されている学者の方が各学問についての入門書を書かれていたりするので、古典を読むならその分野の入門書を流し読んでから、でも早くないと思います。しかし、入門書を読んだとしても、古典を読む状況をさほど改善しないこともあります。昔の人は今ほど学問分野が細分化されていない状況で本を書いているのでやはり状況が異なっているのです。そうなると古典を読んだところで、いまいち何を書いているのかわからないこともあったりするでしょう。それもいい、教養なんてそんなもんだから、という場合はアリなのでしょう。とはいえ、大してハードな読書経験をしていなさそうな人にとにかく古典を読め、などと能天気に言われたらキレそうになるのもまた事実です。
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