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瑞巌寺の歴史

瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、臨済宗妙心寺派に属するお寺です。

臨済宗とは、日本には臨済宗と曹洞宗の2つあるうちの1つで、臨済義玄(りんざいぎげん)が広めたものです。

臨済宗とは簡単に言うと「悟り(心の迷いを去って正しいものを取得すること)を開くには自分と向き合うことが大切である」という教えです。

妙心寺派とは簡単に言うと、自分自身を信じ受け入れ、生かされていることに感謝して穏やかな人生を歩みましょうというものです。

これらの教えのもとにあるお寺です。

9世紀初頭、比叡山延暦寺の第3代座主の方によって開創された天台宗円福寺がその前身であると伝えられています。

東北一帯を支配した奥州藤原氏も保護したとされています。藤原氏の滅亡後は鎌倉幕府が受け持ちますが、13世紀中頃、幕府執権・北条時頼が法身性西禅師という僧に臨済宗建長寺派(禅の教えを深く信仰する)【禅とは心が動揺することのなくなった状態】へ改宗し、お寺の名前も円福寺に改めました。

関ヶ原の戦い後、仙台に拠点を置いた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神の拠り所とするために神社仏閣をたくさん建てました。

中でも円福寺の復興には力を注いでいて、自ら縄張りをしたこと、良い材料を求めたこと、良い大工を招き寄せたそうです。

その理由としては、
①藤原氏や鎌倉幕府という名高い人物の継承者としていれること
②自分の先祖代々の墓を置こうと考えた
と考えられます。

松島は景観の素晴らしさ、月の美しさ、歌枕の地として有名であったため、松島を堪能するという目的もあったかもしれません。

慶長13年(1608)に大きな鐘に「山を号して(名づけて)松島と日い、寺を名づけて瑞岩と日う」という1文が書いてあったことから瑞巌寺と名づけられました。

明治維新後の廃仏の動きや伊達家の版籍奉還(藩が朝廷に領地と人民を渡した)による寺領の撤廃により荒廃の憂き目を見ることになりますが、明治天皇東北巡幸で瑞巌寺に訪れ、1000円を自分の所持金から出したことが復興の契機となり、大修理を行い、昭和28年(1953)に本堂と御成玄関(おなりげんかん)、昭和34年(1959)に庫裡(くり)【寺内の食事を用意する場所】、本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。

平成30年(2018)には10年に及ぶ「平成の大修理」が完了して現在の姿になっています。

参考:zuiganji.or.jp
     https://www.osohshiki.jp. 
        https://www.daruma.or.jp 
        https://www.myoshinji.or.jp


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