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現代における預言シリーズ③ 私が学んだ注意すべき点やオープン神学について

前回の記事で書いたように、私は初めて受けた個人預言の力とその内容の的確さに衝撃を受け、個人預言の初心者に多い、ある種の預言中毒者(笑)になります。

毎週のように個人預言を受けることが出来る集会に行き、周りの友人を連れて行き、延べ30名程の友人に個人預言を受けて貰いました。

私自身も何度も預言を受け、預言の言葉が私の人生の歩みを確かにするかのような錯覚を持っていたように思います。
これは預言を正しく理解していない事が原因であり、間違った期待感になります。

当時の私は語られた預言が直ぐにでも成ることを期待していたように思います。

しかし預言が成るには時間がかかる内容も多く、神のタイミングが訪れたとしても、神がすることと、私たち人間がすることの両方が必要になってきます。

そして神の側にミスは起こりえないので、預言の成就を阻むものは100%人間側の問題と責任になります。

私はそのことを身をもって体験して学ぶのに数年はかかったように思います。どれくらい深いレベルの従順や信仰が必要になるか当時は理解出来ていなかったので、長い年月を要しました。

これを聞いてクリスチャンの中には
「神は全知全能で全てを統べ治めておられるのであるから、私の将来も神の御手の中にある。」 
「未来で私が何をするのかは神は全てご存知であるから、既に決まっている。」
このように考える人もおられると思います。

確かに神は全知全能で、全てを統べ治めておられますが、私たちの意思と選択を尊重されます。地上の物語は最終的には神の計画通りに進みますが、その過程は神と人とのチームワーク、共同作業、パートナーシップによって進みます。

誰がそれをするのか、
どのようにそれをするのか、
いつそれをするのか、
これらの要素も一部分、もしくは全てはオープン、つまり開かれているのです。

最近では福音派の中でもオープン神学という考え方が広がってきているようですが、私の理解と近いと思いますので、以下に紹介しておきます。

オープン神論とは、神は自由な主体を含む世界、したがって可能性が真に存在する世界を創造することを選ばれた、という見解である。未来は神が予め決定することを望まれる限りにおいて、また被造物の主体が行なった選択の不可避的な結果が予め決定する限りにおいて、予め決定されている。しかし、未来はまた、主体が自らの選択によって可能性を実現する自由を有する限りにおいて、開かれている。

オープン神論の見解では、神は未来を含めすべてのことがらを完全に知っておられる。しかし未来は部分的に可能性から成っているために、神はそれを部分的に可能性から成っているものとして知っておられるのである。

難しい言葉が多いですが、未来は全て決まっている訳ではないという事です。

逆に未来は神が全て知っているのであるから、決まっている。

この思想は非常に危険であり、クリスチャンの人生を狡猾に骨抜きにし、炎を消し、責任感と使命感を奪う悪魔的な欺きを含むものであると私は思っています。

それは私の人生においても間違いなくマイナスに作用し、私が観察してきた他の多くのクリスチャンの人生においてもマイナスに作用しているように見えました。

そして世界的に活躍している神の人は、私が知る限りは全て今私が理解する神と人との共同作業における未来創造の立場にあると思います。

それは当然のことです。

未来は既に決まっていると考えれば普通、人は怠けやすくなりがちです。
そして無責任になりがちです。
大きなリスクを取ったり、大きな忍耐力を培うことも避けるようになりやすくなります。

すると大きな山を動かす程の信仰を持つに至る人も減り、神の偉大さを経験する人も減り、地上に本来起きるはずであった神の計画も多くは実現しないで天国で留まってしまうのです。

悪魔はそれが狙いでそのような欺きを含む神学をたくさんキリスト教会の中に持ち込んできているのです。

いつか私が経験したそれらの欺きを含むキリスト教会の常識や一般的な文化に対する記事も書きたいと思います。
聖書的でもなく、本質的でもない、形式的・宗教的・伝統的な文化は教会の中に多くあります。

そして残念なことにそれらの文化を実践しても永遠的な実が実ることはあまりないのです。

私は幼い頃からそれらの形式的・宗教的・伝統的な文化があまり好きではありませんでした。

今ではハッキリと何故嫌いであったかわかります。

逆に人間的な性質としての変化を嫌う考えや、実践的なリスクを避ける考えはそれらの形式的・宗教的・伝統的なものを好み、聖霊の流れや聖霊の現れを嫌い、迫害します。

そして預言的流れは間違いなく聖霊の流れなのです。

教会とは本来神のものであるはずであるのに、いつから罪によっで堕落した人間の性質が教会の中で力を持つようになってしまったのでしょうか。

しかし聖書的で本質的な文化としての預言や預言的な要素は教会に必要なのです。

聖書は預言と預言的要素で満ちています。
神は今も昔もこれからも変わらないお方です。

地上から預言的要素が無くなった、終止したことは、人類史上で一秒たりとも起きていません。

預言的要素が回復されると教会はビジョンと命に満ちて、ダイナミックになります。

神の声が教会の中で回復し、神との親密さの信仰が立ち上がります。

人間的で宗教的な要素が剥がれ落ちていくので、教会がより神の栄光で満ちるようになります。

2020年、今が日本の時です!

今日の見出し画像 (先日の家族旅行の写真です)



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