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香りが開く、記憶の扉
とあるオンラインのWSで、「香り」をテーマに話をする機会があった。
私が話したのは、むかし訪ねた場所の食べもの(バングラデシュのビリヤニ)を食べた時に、20数年前にバングラデシュで過ごした日々の記憶がよみがえってきて。
香りが、記憶の扉を開いてくれた、という話。
WSが終わって、夜、ふとアマレットソーダが飲みたくなって。
久しぶりにアマレットをグラスに注いだら、ふいにまた、記憶の扉が開かれた。さっき、香りは記憶の扉を開く、と話したのは自分だったのに。
うかつだった。開くつもりのなかった扉が開いてしまった。
ふいに開いたその扉からこぼれた記憶は、もう10年以上前なのにとても色鮮やかで。まるで昨日のことのようだった。
***
むかし、実家の近くに小さなバーがあった。
お茶室のように、少しかがんで入る扉をからりと開けると、扉の向こうには薄暗い空間が広がっていて。
カウンターの向こうにはマスター。
多くても6・7人入れば満員になってしまうような小さな空間は、とても濃密で、親密な空間だった。
日中はグラフィックデザインの仕事を本業にしているマスターの話しは面白くて、いろいろな人が集っていて。
まだ学生だった私は、そこに行くと、ほんの少し大人になったような気がした。
折に触れて通ううちに、マスターと仲良くなって。
ほかのお客さんがいない夜には、カウンターのこちら側にマスターが出てきて、並んで飲み交わすこともあった。
しばらくcloseの札が続いたある夜。
久しぶりに、小窓に柔らかな明かりが灯っていた。
からりと扉をひらき、くぐると、「ひさしぶり。いつもの?」と、マスターはいつもの穏やかな笑顔と声で聞くとアマレットソーダを作ってくれた。
突き出しを2人分用意して、カウンターの向こうから出てくると、すとんと私の隣に腰を下ろす。
「最近ちょっと調子悪くてさ、病院行ったの。そうしたら余命宣告されちゃったよ。末期がんだって。今日店を開こうかすごく迷ったけど、家に1人でいると暗ーくなりそうでね。でも誰も来ないから、やっぱり閉じようかと思ってたんだ。今日、来てくれてありがとう」
黙って突き出しを少しつついた後、不意に口を開いたと思ったら、そう一気に話すと、マスターも「いつもの」バーボンのお湯割りをグイっと飲んだ。
***
突然の告白になかなか言葉が紡げない私の横で、マスターは饒舌だった。
パートナーも子どももいないから、「残すもの」への不安はないこと。
ここ最近、ずっと背中に痛みがあったこと。
それでも眠れない不安な夜があること。
いまよりも、もっともっと幼かったあの日の私には、ただただ耳を傾けて隣にいることしかできなかった。いつもは、温かに包み込んでくれるような、ちいさなその空間の密度の濃さに押しつぶされそうな時間だった。
「数日後には入院しないといけないんだけど、病院にもさ、たまに会いに来てくれる?」
近所の大学病院の名前をあげて、そう聞いたマスターの声は少しかすれていた。
***
お見舞いに行くたびに、小さくなっていく姿に、旅立ちはそう遠くないことにどこかできづいてはいたのだけれど。
マスターの入院と前後して出会った、恋人との時間に浮かれていた私の足は、少しづつ病院から遠ざかってしまった。
店主と客よりもほんの少し近い、年上の友達のようなひと。(マスターは2回りほど年上だった)
店以外で会うことはほとんどなかったけれど、扉を開ければいつもあたたかく迎えてくれた人が、この世界からいなくなる日が近い、という事実が受け止めきれなくて。
私は、この先もしっかり、目の前にいてくれる人との時間を優先してしまった。
いまならその時の自分の気持ちをそんな風に振り返ることができるのだけれど。その時の私は、病室へ行けないことへの罪悪感をいつもどこかに抱えていた。
***
その後、ほどなくして、風の便りで、マスターが旅だったことを耳にした。
しばらくして店の前を通ると、場所はそのままに、マスターのバーは違う店に代わっていた。
小窓にともる柔らかなあかりは、前と変わらないけれど。
くぐり戸の向こう側にはもう、マスターはいないんだ、と思うと、私にはそのくぐり戸をからりと開いてみることはできなかった。
***
いつか私も虹の橋を渡ったら。
会いたい人がたくさんいる。
マスターもその一人だ。
きっと彼はいまも、向こうでバーを開いて、自分もグラスを傾けながら、夜な夜な集う人の話に耳を傾けていることだろう。
そんなことを想いながら、グラスの氷をからりとまわすと、
「ひさしぶりだね、いつもの?」という穏やかで優しい声が、ふと聞こえた気がした。
記憶の扉が開いた夜だから、虹の橋の向こうのバーと時空がつながっているのだろうか。
「お久しぶりです。そう、いつもの」
向こうに行った時の楽しみがあるのは嬉しいけれど。
隣に並んでまた一緒に飲む日は、まだもう少し先にしておきたい。
虹の橋を渡る前に、私にはまだ、こちらでもう少しやることがあるから。
***
辛かった時、悲しかった時。
生きていれば、そんな時が時折やってくる。
そして、そんな想いを抱えきれなくなった時、気づかないうちに自分の奥深くにそっと封印していたりする。
今回香りが開いてくれた封印は、色鮮やかでちょっとほろ苦くて、でも優しい色をしていた。
きっとまだほかにも、封印が解かれるのを待っている記憶が私の中にはいくつも眠っている。
次はどんな香りが、どんな記憶の扉を開くのだろうか。
もう封印を解いても大丈夫。
そんな風に自分の中で、その記憶や想いが発酵しきった時、封印の鍵となる香りがやってくるのだと思う。
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