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【日記】きみは本を読む

言語初級みたいなののエクササイズの中で生まれる、詩的な文章が好きだ。今日の例で言うと、

Ты читаешь письмо.

フランス語と同じでТы (単数二人称)とВы(複数二人称もしくは単数二人称の丁寧)が使い分けられるので、Выはあなた、Тыはきみと訳しわけて、

君が手紙を読む。

となる。少なくとも私の宿題ノートの上では。滅多に言わなくて、綺麗な文章じゃないだろうか。君が手紙を読む。僕がそれを書いて君が読んでいるのをこっそり見ているのか、僕は全然違う人からの手紙を読んでいる君のことを横で見ているのかもしれない。君が(誰かの)手紙を読む(のを僕は見て、表現している)。

むかし好きだった人が、私のことをたまにきみと呼んだのを気に入っていて、その時からきみという二人称が好きなのかもしれない。きみと言う人称には、尊敬とも距離とも違う、どこか優しい響きがある。名前でも愛称でもなくて、きみ。


わたしのGoogleスカラーは、基本的に英語での検索結果しか表示しないようになっている。Well, 「私の」ではないけど。日本語で検索してもまずひっからないようなことばかり調べているからだ。しかしたまに、チェックをつけ間違えてしまって日本語で検索してしまう時があって、そんなときに「定量的方法を用いた〇〇の検討」とか出てくるとビビる。


私と気が合いそうな先輩を紹介してくれたかつての知り合いが、どうだった、と連絡してきた。企業の面接とかでもいつも思うのだが、私は「相手がどんな人か」を理解するのが苦手だ。「うちの会社の人、どんな人が多いと思いました?」とか、「新しくあった人どんな人だった?」とか聞かれたときに、その人の興味とかタイトルとかはまあそりゃ覚えてるけど、「どんな人」かってすごく難しい質問だと思う。結局「こうこうこういう点で頭が良い人だと思いました」って言ってるだけ。どんな人かなんてマジで全くわかんないです。みんな賢く見えるだけ。みんなどうしてんの?????

毎回「次いつ返ってくるんだ?飲みにいくぞ」と言ってくれるので、実家のおじいちゃんみたいだなと思う。実家におじいちゃんいたことないけど。


糖質制限をしている。が、思ったように体重が落ち無いので食生活を見直すことにした。まず、多分フルーツを食べ過ぎている。蜜柑3個は多い。以上。次に、スイートコーンはあんまりダメだ。私はスイートコーンが好きなので冷凍で買ってオムレツとかキャベツの千切りとかに混ぜて食べていたのだけれど、コーンスターチというものの存在を思い出して気がついた。コーン主食の地域あるわ。昼を完全栄養食(炭水化物を30g含む)で済ませている分、他のところで取っていたら仕方が無い。部屋にあるものをイナゴのように食べ尽くしてしまう激弱意志の持ち主なので、食べるべきで無いものは部屋に置かない、以上。安く低カロリーのもののレシピとかを見るけど、こんなの作ってたら人生と財布が終わっちまうよと思う。そんなに色々使ってたらお金無くならない?目の前のプレゼンとエッセイと人生の休息を取っていたら、料理なぞしている暇はないのだ。1時間時間空いたら昼寝するしな。


久方ぶりに土曜日が休みで、私は土曜日と日曜日という連続した休日を手にいた。結局土曜日も日曜日も用事があったので完全な休みではなかったのだけれど、まあ休みみたいな気分ではある。2年働いてアルバイト先に異様なまでに気を遣わせていることが段々わかってきて、わたくしとしては申し訳なさでいっぱいである。休日が2日あると、ものごとがよく進む。

土曜日はエッセイを書いた。詩文のエッセイではなくて、課題のエッセイである(東ヨーロッパにおける少数民族保護の発展ーセルビアにおけるアルバニア人少数民族の保護を例に)。毎年やってる広報の仕事とかをした。日曜日はジムに行って、風呂に入って1週間分の買い物をして、集まりに出て、帰ってきて作り置きをした。朝60分11km走ろうと思ったけど、どうしても40分6.6kmしか走れなかった。

部屋の至る所に至るものが散らばっていたので、元の場所に返した。部屋の片隅には洗った洗濯物が積んであったし、その地層の中にはロシア語のプリントと読みかけの論文と企業説明会のメモ帳が埋没していた。全部スキャンしてあるべきところにしまった。その反対側には昼ごはんのボトルとプリンターが積み重なっていた。今週は忙しかったのだ(でも週3でジムに行った!)。


色々な大人と話していて、思ったこと。「私はキャパがないのでこうしました」とか、「私にそれはできないなと思ったので、こうしました」と言っても良いということ。なんとなく、「絶対に不可能なこと」(例えばオックスフォードで物理学をやります!)と言っても、それはできることではないけれど、「やりたくて多分可能なこと」はどうにか頑張って達成しないと、取りこぼしみたいに残っていってしまうように思っていた。だけど、「頑張ったらできそうなこと」は必ずしも頑張らなくてもいいのだ。それを頑張るかどうかは、あなたが頑張りたいかどうかにかかっている。

ということに、22年目でようやく気がついたような気がする。

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