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【記憶】大学の英語の先生

ふっと思い出した。

グラフィックデザインを勉強して、そういう職についてみたいんだよね、と言っていた時期がある。21年にわたる人生の中で、3週間くらいのことだ。プレゼンテーションとかウェブサイトとかの2Dのものを通してメッセージを伝えようとすることが好きで、今ならまだそっちの方向に舵を切れるような気がしたのだ。今思えば、夢だけで生きていけるほど世界は優しくないと思う。

そんなことを思うたびに、進学準備コースの英語の先生のことを思い出す。ListeningとSpeakingの授業を持っていた先生である。英語の授業の半分を持ってもらっていた先生だったので、卒業パーティーに来ていたところを探して挨拶に行った。

仏教徒でありフレキシタリアン(外食の際は肉を食べるなど寛容だが、家庭での食事は植物性のものに絞るもの)である彼は、コロナの前には日本に修行に行ったりしていたらしい。富士山の麓に修行のためのお寺だか施設だかがあるらしく、昔はそこに行っていたのだという。

話の流れで将来何するの?と言われて、当時ゆるゆるだった私は頭空っぽのまま、「わからん、本当はグラフィックデザインとかにも興味がある」と魂の根底にある欲望を述べた。先生はそれを聞いて、「君はRussel University (英国の中で良いとされている大学群、日本でいう旧帝大とか早慶上智のような括り方)に進むわけで、そこを卒業しておくのは将来役に立つだろうね、だからそういうのは趣味に留めておいた方がいい」とThe・先生というような回答をくれた。続けて、「だけど、他に取れる選択肢がある」と続けた。

「僕にはね、息子がいるんだ。映画メイキングの専門学校に通っている」 
「なるほど?」 
「僕は小さい頃、映画を作りたいと思っていたんだ。脚本を書いたりするような。自分で脚本を書いたこともあった」 
「なるほど」 
「だから子供にその夢を肩代わりしてもらったんだ。小さい頃から少しずつ映画に興味を持たせて、結果的に彼は『自分で』この道に進んだ」

サイコパスかと思った。まずそんなことを堂々と生徒に語らない方がいいのではないか。そういう下心を持って子供を育てるのは、果たして正しいことなのだろうか?

人の家の教育方針に口を出すつもりはサラサラないが、子供を育てる際の基本姿勢について、深く考えることになったのは言うまでもない。

ちなみにこの先生は、3学期の終わりにおうちにディナーに誘ってくださっったので、電車に乗って訪ねて行ったら華麗にすっぽかされた。誘ったことをすっかり忘れていたらしい。そんなことってあるかよ。

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