見出し画像

【雑記】2024年2月上旬

もう胃が萎んだ上に傷んで久しいので、半分食べてあとは持ち帰りました。


私がUCLのPolitics and International Relationsに落ちた時、もしくはLSEのInternational Relationsに落ちた時、大学はオンラインで、私はアルバイトをしていなくて、イギリスでひとりだった。だから、一人で部屋で泣いて、ひと眠りして、それから色々なところに謝罪と登録変更のメールとか手続きとかを出した。奨学金の団体に、最初に言っていたのとは違うところに進学します、と言わなくてはいけなかった。

感情を人と共有するということには、特別な意味があるということを理解できるようになったと思う。自分のキャパシティを優に超える悲しみや喜びは、こぼしたまま抱えて歩き続けるには多すぎる。

公務員試験に受かった時、バイト先を何回も休んだので(2ヶ月で2回日本に帰ったので)、受かりましたご協力ありがとうございました、と言ったら5分後には店中の働いている人が知っていた。おめでとうね〜!と言われまくって、なんか祝ってもらうのを要求するために申し上げたようで申し訳ないなと思った。だけど、ひとりで合格通知を見るよりも、外的に祝われる方が印象に残るなと思った。

留学相談を受けた人がファンデに受かりました、とか、奨学金に受かりました、とかメールをくれる。進学してから毎年何人かはメールをくれる。よかったねと思う。パソコン越しにできることはあまりないけれど、外側の人間として、おめでとうを言える存在でありたいなと思っている。本当は、おめでとうをいうより、進学を断念しましたという連絡のほうが心に残る。僕は進学支援みたいな仕事(謝礼をもらってやることが多いので仕事としよう)は頂いたら基本断らないが(奨学金をもらっている分そういう責任があると思うから)、断らない分そういう子がいたことは、忘れてはいけないと思う。

誰かにご飯を奢られることや、物をもらうのがなんとなく苦手だった。どこまですれば謝意を示せるのかよくわからなかったから。だけど、徐々に自分の収入を得、奢ったりあげたりする側になってわかった。一部の例外を除いて(例えばボスキャリのディナー)、与える側も同じくらい得ているのだと思う。人間ってゼロサムゲームじゃないのだ。不思議だと思う。


日本に帰ったら大学に通おうと思った。聴講生とか、科目等履修生とか呼ばれるものだ。低く見積もって、出願に10000円、一科目あたり40000円くらいするらしい。そっかあ。教育ってすごいね。上智大学という大学に行ってみたかっただけれど、結構な大金だ。

バイト先の高等教育を完了した人に(修士も持ってるらしい)「帰ったら国際法やろうと思うんスよね、聴講で」と言ったら「結構安く受けられるもんね」と帰ってきた。別に散財するような人の印象でもなくて(というか倹約家のイメージで)、だから学がある人って教育の価値をそうやって捉えられるんだ…と尊敬に思った。同時に、知識を得られるならいいか!と開き直るきっかけにもなったのでよかったと思う。学べると思えば安いじゃんね!


UCL is lucky to host international students. というのが、今週のUCLからのお知らせである。Chinese New Yearに合わせて、大学でダイバーシティ祭りみたいなのをやるのに合わせて、ダイバーシティって素敵だね、という趣旨のステートメントである。

UCL is luckyってなに?Luckyなの?なんかモヤッとした。Luckyなんじゃなくて、まずお宅の教授とかがちゃんとUCLというブランドを作り上げて、それをビジネスとして世界中から人を集めるように動いてきたんじゃないの?そこにはInternational studentを呼び込むためのストラテジーがあったんじゃないのか?私のLuckyという単語に対する理解が間違っているのか(それは可能性として大いにあると思う)?

私は大学の教授とか授業とかアカデミックな部分は好きだけど、それ以外の部分はあんまりすんなり好きだとは言えないのかもしれない。別にイギリスの大学なので好きにすればいいと思うけどさ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?