【日記】雪・前夜譚
バイト帰りの道を歩く。すっかり暗くなった通りをふと眺めると、道が無数にキラキラとひかる小さな粒に覆われている。安物のハイライトを手のひらに広げたような、本当に小さくて些細な粒だ。はぁぁっと吐き出せば白く曇る寒さに顔を顰めながら、寒くて仕方がなくて家への歩みを早めた。
妹ができる夢を見た。15歳くらい年下の妹は小さくて私に懐いていて、だけど私はイギリスにいて彼女は日本にいるし歳が離れているから、お互いの周囲の人はそれぞれの存在を認知していなくて、それが無性に寂しい夢だった。
目が覚めた。窓の外を見た。結露でぼったぼたに濡れた外側の視界は1/3くらいまで白く曇っていて、窓を開けて初めて霧が出ているのだとわかった。そうしてようやく、昨日のハイライトみたいな地面は氷の粒だったのだと気がついた。
日曜日の朝、静かな街を大学に向かって歩いてみれば、地面に積もった落ち葉の上に、芝生の上に、車の上に、雪になれなかった水分を蓄えた霜が降りていた。
そんな冬が来た1週間の話。
腕時計をしている。数年前に廃盤になった、エプソンのスマートキャンバスという製品だ。
https://www.biccamera.com/bc/c/brand/womenswatch/smartcanvas/index.jsp
中学1年生の時から使っているような気がするので長持ちだと思う。というか、壊れた時に実家の近くの時計屋さんが直してくれるので長持ちなのである。
私は時計を手の甲側に、セーター等長袖のものの場合はその上からつける。パソコンを1日中ぶっ叩いている身として、時計が内側にあると画面が傷つくしうるさいし、時計を見るために腕まくりをするのは面倒だからだ。
なので、人の視界に時計がよく入ることになって、結果としてよく時計を褒められる。えっ、かわいい。電子書籍みたいじゃない?スヌーピーなんだ!日本の雑貨は’kawaii’.
グループワークをやっていた。男の子(それも仲がすでに良い)2人組と一緒に3人のグループだ。ちょっと気まずい。気まずいが、私は同じ学科に顔見知りはいても友達はいないので、どこでもそうなる。私の立ち位置は頑張っても「授業がちょっと被ってその度にちょっと話す程度の女」である。
が、勉強の話ならいくらでもできるので、Googleドキュメントを立ち上げて、どんどん打ち込んでいく。横に座っていた彼が打つのやめた、と思ってチラリと目の端で見てみたら、じ~っと私の時計を見ていたのでちょっと笑った。
漠然と実感がないまま毎日を過ごしている。
いや、別に大学の授業はきちんと全て出ていて、予習もきちんとした上で臨んでいるし、復習は完璧にできているかと言われればちょっと自信がないけれど、まあ英国の大学生なりにやっていると思うし、就活もまあ真面目にやったし、課外活動も一応やってるのだが。
褒められても本当にわからない。あべさんってやっぱすごいですね、と言われてもそれがお世辞なのか私のどこかを評価しているのかもよくわからないし、大学の課題で70%をスコアしても採点が緩かったんだな〜としかならないし、面接のフィードバックで〇〇なところが好感を持てました、とか言われても果たしてそうだったのだろうか?と頭を傾げるばかりである。どこまでがお世辞ですか?
自己評価が上手くいかなくても、他者からの評価が良いうちはどうにかなるような気がして、だからずるずるとここまできてしまったのだ。
「あれ、日本帰ったのかと思った」
と、バックヤードに入るなり私をみてバイトの後輩が言った。後輩と言っても多分年上だし(私は下から数えたほうが早い)対して経験も離れていないのだけれど、便宜上後輩と呼ぶ。
いや、バイトあんまり休めないし飛行機代高すぎるからなあ。
英語と日本語の間を文節毎に行き来しながら話が進む。お互いが相手の喋りやすい言語に合わせようとした結果、双方がネイティブじゃない言語で話してしまう現象、あるあるだ。
あれ、あがり?そうそう、僕はこれで。じゃあまたね。1 Hit.
そんな会話をしたすぐ後、バイトの後輩②(後輩と言っても以下略)のご家族がご飯を食べに来た。日本語が通じるので接客の敬語を思い出す。楽しそうに写真を撮る。2 Hit.
彼らが帰ってテーブルを片付けて、次のお客さんが私に写真を見せる。この前日本に行ってたのよ、みて、このアサヒビールのモニュメント。あ〜〜〜スカイツリーのあたりですよね、浅草とか日本っぽい風景で楽しいですよね。3Hit.
いちにちで連ちゃん3ヒットされて、ホームシックになった。このままヒースローから羽田に帰りたい。乗り換え2回のイージーな旅だ。だけど私はこれが、ホームシック半分現実逃避半分であることを知っている。実家に帰ったってどこに居たって、将来に対する漠然とした不安、みたいなものはもうしばらく消えないのだ。たぶん。
やけにタイピングの音が部屋に響くなと思っていた。結露を拭くためにブラインドをめくれば、いつの間にか雪が降っていた。12月に降るのは3年目にして初めてだ。目の前の屋根が真っ白に染まっている。21歳にも関わらずなんとなく嬉しくて、ハンディな一眼レフを持ち出して写真を撮る。いつの間にか、一眼レフを買って3年が経った。しんと静まり返った深夜の街に、私の押すシャッターの音と、それからどこかで救急車のサイレンの音が響いているような気がする。
雪が降ると、どこか悲しくなる。
それは夏を迎える前、5月の切り裂くように青い空と街路樹の緑のコントラストを眺めている時も、真夏の公園の噴水からベンチに向かって灰色の裸足の小さな足跡が続いているのを認めた時も、秋の始まりとともに街路樹に揺れる橙が鳥の囀りと共に吹き上げられて散らばっているのを見上げる時も同じだ。
時間が過ぎ去っていくのに、自分は何も成し遂げていないような気がする。季節が移り変わり一つ前の季節と時間を失うたびに、その時間になんらかの価値が付随していただろうか、と思う。あと何回これを繰り返すのだろうか、と思う。
こうやって文章に書き留めて、流れるように消えていく日々の足音を残そうとしている。
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