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【日記】父におもうこと

父を失い、10年以上が過ぎた。大学を出るということは社会に放り出されるということで、私はそれが人生の大きな区切りに思えて仕方がないので、一度色々思うことを記しておきたいと思う。ずっと出そうかな、いや出すまいと思っていたものを。

恐ろしかったのは、徐々に父が夢に出る回数が減っていったことだった。日単位が週単位となり、いつしか月単位となり、数ヶ月単位となった。まだ年単位にはならない。不可抗力で、私は父のことを忘れつつあるらしかった。最初は夢の中でも病床にいてコミュニケーションが取れなかった父が、現実で時間が経つにつれて夢の中では時間を遡り、方々の家の(地方に住んでいた時の)リビングルームでの会話相手になり、散歩の同行者となった。多かったのはリビングだった。

病床の父の夢は、もう見ない。

徐々に、父の声を忘れつつある。人は声から忘れていくと言う。定期的に思い出そうとしては、父が私の名前を呼ぶ声は他の声と混ざっていくようで、ホームビデオというものが全くない家の娘である私には、答え合わせの術は全くない。しかし何時間かかけて教え込まれた名前の漢字の書き方やバランスは未だに記憶に刷り込まれているし、漢字で名前を書くたびに名前だけはちょっと筆致が似ているのではないかと思っている。

私が東京の中高一貫校に行かなければ、父は生きていたのかもしれないと思う。それは、数多の因果の線の一つでしか無いが、同時に一つではある。それを原因に母校を出たことを後悔はしないが、同時にいつも、そうだったのだと思い返している。それは烙印のようにジリジリといつもそこで燻っている。

自己憐憫に陥らぬように気をつけてきた。実際全く、文字通り全く制限されることなく学生生活を送った。海外大進学を金銭的理由で諦める人は少なくないことを知っている。母の苦労は底知れぬし、感謝しかない。教育には金がかかる。バイトをして嫌というほどわかる。子供を持つことが万一あったとしても、私がしてもらったのと同じような教育は受けさせてやれないなと思う。兎に角自己を憐れむ理由もなかった訳だが、うっかり憐れまぬようには気を付けていた。中高の同級生は、ほとんどわたしが父を失ったことを知らない。知らないまま、同級生から他人へと戻って行った。

中学の保健室のカウンセリング室で、腎臓だか膵臓だかが痛くなるまで泣いた日のことを思い出す。男性のカウンセラーで、自分の祖母が亡くなった時の話をしていて、私は泣いていた。ここで泣いてもなにも解決しないと思って、二度と行かなかった。なにも解決しないし、そもそも解決されるようなものでもなかった。ただそこに、ぽっかりと悲しみがあるだけだった。

時が経ち、大きな喪失感を時が癒したかと言えば、そんなことは無いと思う。ただただ、目を背け上に板を渡して隠しているだけである。そこに大きな穴があることに慣れ、迂回しながら毎日を過ごしている。

人は死ぬのだということに対する経験的な理解は、私の人生を大きく決定づけたと思う。人はどうせ死ぬ。なにがあろうとも結局は死ぬ。ならば、なぜ生きねばならぬのか?それは積極的に死を求める姿勢でなく、消極的に生きる意味を求める姿勢である。同時に、意味を持たせようと、文字通り一生懸命に過ごしてきたと思う。どうすれば、意味を与えてやれるのか?

時折、これも頻度は減ったが確かに、父のことを思い泣く日がある。同時に、父のことを思わずに、ただただ疲れて泣く日も生じた。私はなにに対して泣いているのだろうと思う。私は父を喪失したことに泣いているのだろうか。私のために泣いているのだろうか。言語化できないものが涙になって流れ落ちているのかもしれない。

社会に放り出されるにあたって、父の社会への関わり方を知りたかったと思う。同時に、知らなくて良かったのかも知れないと思う。私は逆説的に自由であったし、しかし同時に追うべき重要な背中を失ったのかもしれなかった。就職活動の方針に悩んだ時、父に話せば何か変わったのかもしれないと思いつつも、きっと話はしなかっただろうと思う。

そうやって中学課程を修了し、高校課程を修了し、成人し、大学課程を修了し、わたしは社会人になろうとしている。もうこんなにも大きくなってしまった。これからも大きくなり続けて、いつかまた、違う向き合い方を知るのかもしれない。

そんな日まで、しばらくはどうにかしようと思っている。


内定受諾をした後にお断りした会社に、父と漢字まで同姓同名の方が働いているのを偶然見つけてしまい、お断りして良かったと酷く安心した。

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